勝間さんのブログで、”虫のしらせ”を大事にしよう、ということが言語化されていた。
勝間さんの言語化能力は、素晴らしいもので、ブログを読んで”そうそう、実は自分はそう思っていたんだなあ!”と思う事が頻繁にあるのだ。
虫のしらせ、というのは、表面的にはやりたい、ということをどちらかというと刹那的な欲望や衝動で思う時、本当にそうか、ということを心の奥では密かに感じているような時に発動するようだ。
よく、激情に駆られて書いた文は一晩置いて、翌日読み返せ、などという。翌日見てみて、恥ずかしくて送らない、ということにほぼなるようだ(自分経験調べ)。
それと似た話だろう。虫のしらせをかすかに、かそけく、こころのどこかで感じたとき、ひとはデフォルトで押しつぶすようになっているようだ。
それで失敗して、経験値が上がると、
”あれ?あとで反省することになったあのことを決断した瞬間、なにか違和感があった気がするなあ”ということが何度かあるわけで、それを思い出すのだ。
その違和感を”虫”と表現する日本語の深みはすごい。
外国語として日本語を教えるとき、この”虫”の説明には苦労するだろう。うまく表現できないか、あるいは”魂のささやき”=soul wisperなどとわけのわからない説明にたどり着き、”虫と魂を同じものとして表現する日本語ってどうなの!!?”という感想を惹起することになるのかもしれない。
まあ、話がとっちらかってきたが、私は虫を気にしだしている、ということだ。
虫はあるいは”経験値”と言ってもいいかもしれない。
最近で虫を多用しているのは、やはりものの購入だ。
本当に必要か?あとであちゃーっとならないか??
そういうことである。
私は古本と並び最近は古時計(主にオールドクォーツ)をメルカリやヤフオクで買うことが多い。多分本よりも時計の方が場所を取らない、ということがあるだろう。同数の本を買ってしまうと、相当やばいことになっているはずだ。
で、ついついテーマに沿っていろいろトライしてしまうわけだ。
金は少ないが、ブランド品を買いあさる心理と根っこは同じである。収集癖というのはこういうものだ。ここで金があれば、高いものを買っているだろう。
最近は生活費を管理しようとするなかで、やっとこさ酒を飲もう、飲み屋に行こう、外食しよう、という欲望がおさまってきた。サイゼリヤは安いが、水道水はもっと安い。そういうことである。
よく外食していたころは、店の前で”行きたいなあ”などと思ったが、今はそもそもそういう検討をする対象ではない、という感じにやっとこさなって来たのだ。
時計も高いものはそもそも見ない。1000円レベルで見てはいるが、ちりも積もれば、ということもある。
そこで採用したいのが”虫”だ。ちょっと鳴くと、うーんいったん様子をみるか、ということにしたいわけだ(まだできてませんが)。
まあ、金を把握できて来たので、買えないものは買えない、という感覚がやっと出てきたのはいい傾向だ。
しばらくはより”虫”の鳴きを意識していきたい、と思っている。
(でもだいぶ買ってますが。。。。。。)