ラジオ体操が嫌いだと、ずっと思ってきた。
そうではなかったのだ。ラジオ体操自体は良くも悪くもない。むしろ心掛け次第では「よきもの」となる。
ラジオ体操ではなく、それを「する・させられるシチュエーション」が嫌なのだ。
戦前の映像。軍事活動。一糸乱れぬ隊列。
そのようなものを見るときにまず、そして唯一感じるのは、
「強制されていて、嫌そうだなあ」
これである。
皆さんもそうだろうが、私も強制されるのは嫌だ。
強制とは、個別の事情を超えて、集団の要請に従え、とおどすことだ。
従わないと、罰則がある。
それが嫌で、仕方なく従う。
従ううちに、「気持ちの中の角が取れてくる」。
で、「どうでもよくなる」。
その「諦め」の集大成が、あの「一糸乱れなさ」だ。
それをさせる側の心境。
させられる側の気もち。
それらが迫って来て、いたたまれない気持ちになる。
動物の集団でなすべきことは、「誰がボスか」「誰が影のボスか」「どちらが序列が上か」「誰が年老いて、集団から排斥すべきか」、
まあ、そのようなところだろう。
人間も集団を組む動物だ。「自分はだれかより劣後である。」
それをつきつけるのが、「強制」だ。
それと類似の、それを内面化したものが、「比較」かもしれない。
自らが集団で「上である」ことを示そうとする無意識の心持ち。それが比較だ。
「ラジオ体操」、とは、朝、同じ時間に来い、と「住空間で含まれているであろう組織=町内会など」で言われ、「いかないとなんだかんだ言われる」のを避けるために「嫌々行く」ということを想起させる名詞だ。
ああ、いやだ。
だがいいところ、
座り続けることはいけない。
立って身体を動かす方が「体にいい」。
その面では、とりあえず共有される動きとしてあれがある。
強制ではなく、自ら選び取るのなら。
だがそれは「初めに強制されなければ」得られにくい知識でもある。
逡巡しつつ、決まった動きをする。
だが、その時に、一つの動きに違ったムーブを密かに組み込んでいる。
たとえれば武藤敬司の「フラッシュリングエルボー」。
一度通常とは違う向きに身体をひねることで、単なるエルボーが光るムーブとなる。サブリミナル効果、のようなものか。
私も、音からは微妙にずらし、人と違うムーブを入れて、ラジオ体操を行っている。
誰も気づかない、ひそかな「個人的な反乱」として。
(同じものがひとひねりで「オリジナル」に。やはり武藤は天才ですね)