夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

マスコミとマスゴミ。

マスコミがマスゴミと揶揄されて久しい、というほど久しいのかはわからないが、とにかくそういわれている。

通過儀礼、というものがある。ある組織(会社や集団)に入るとき、その組織でやってゆくためのしんどさ、を象徴する行動を無理矢理おこなわせることで、それ以降の心理的耐性をその人間につけさせよう、ということ、と定義できるだろうか。

よくあるのは、見知らぬ人に名刺をもらう、という新入社員タスクだろう。私が品川にて勤務のころ、駅出口付近でそうした人々にそういった時期によく遭遇した。

名刺を渡すとその後セールスの電話がかかってくるものだが、何の仕事か聞いて、これは新入社員としての「特訓」かと聞いて、まあ、絶対買わないし、電話をかけてこないなら名刺をあげてもいい、というような会話をして、名刺をもらうこともあった。これは最近は減ったが駅前でティッシュをを積極的にもらう行為と似ている。ティッシュ配りは配らないとバイトが終わらないわけであり。ティッシュに入っている宣伝は水商売系かサラ金的なものが多いのだが(あとで捨てたくなる)、まあ捨てればいいか、ということで貰っていた。最近は駅付近でゴミ箱が減ったので、少し貰いにくくなっているのだが。

まあ、これはわたしがおっさんであることで、ある程度自分では「耐性」があると思っていることがあるだろう。無理やり水商売に入らされることもない。どちらかというと客として期待されているのだろうが。勧誘電話を断るのも比較的パターンが出来ている。まあ、早めに「ごめんなさい」というか、「会社で執務中にこういった電話を受けないように指示されています」というか、あるいは知らないところであれば「どこの名簿業者からこの電話番号を購入したのか具体的に教えてください」というか。たまに業者名を教えてくれる人もいる。

いまは会社の代表電話は専門の代行業者が受けてくれるケースも増えた。こうしたニーズが平均的にあることが理由であろう。

マスコミの場合は、事件被害者の写真を遺族、あるいは近所の人(主に卒業写真)から貰うのが通過儀礼となっているようだ。これを「ガンクビ」と呼ぶという。「雁首をそろえる」の「雁首」であろう。そもそも「雁首そろえてまっておけ」といういいかたは、まとめて首を刈るぞ、というような脅しで使われることがおおいだろうから、そもそも「雁首」の語にはネガティブなドクサが染みついている。つまりそういった写真を求めることが「無残で人非人的行為である」ことを十二分にわかってやっていることを指している。

マスコミ志望者げ減っているという。マスコミは一部公共機関を除いて、基本的には「記事が売れなければ成り立たない」稼業である。記事や情報を求める「匿名の個人」は、完全に自由な立場で「好きなものしか見ない」。そこには強制されて見ることもなければ、意に添わぬものを見ることもない(同じ意味かな)。人が他人に規制されない世界で、好きなように見るものを作る必要がある。具体的には「視聴率」や「実売数」が狙えるもの。

そこは「建前」のない「本音」の世界だ。なので教条的なものはふつうは避けられる。そうしたものを消費することに価値を感じる少数派の人々以外では、なかなか見られない。「大衆を啓蒙するぞ」といった「上から目線」がなりたつのは、多くの人が「私は庶民で学がない」などと精神的にへりくだりがある場合であろう。それは「向上心」と類似のものかもしれない。だがそうしたものは「減っている」と感じる。

そうした変化から、マスコミは「基本的には売るための記事(=売文)をつくる行為」とみなされることが多くなった。そのことが端的に若者のマスコミ志望減につながったものと考えている。

報道はもろ刃の刃、人を傷つける可能性が常にある。その中で自身のなかで「何を報道すべきか」という考えを持つこと。これはいわゆる「矜持」ということにつながるだろう。

そうした「矜持」に最終的にはしたがっている。こうした自信が持てない場合は、「マスゴミ」と否定されるのであれば継続できない、ということになるだろう。

だが、そうした逡巡や葛藤の先に、やはり「秘匿しておくべきではない」事実があるのだろう。それを秘匿するほうがその集団としては利益がある(全体には不利益だが)という情報、これを第三者として対抗的に「世間にさらす」という行為、「それを私がおこなわなければならない」。かつては多くのマスコミの人が、まずはそうした志向をもってマスコミ人となったのであろう。

TVや映画が公共的立場を維持できない(ネットがその立場を奪取することとなった)ことが、公共的マスコミ人志望減の理由の一つであるのだろう。相似(と思われる)行為が、ハードルと特段の資格なくWEBで行える、と思えることが後押ししているだろう。

(素晴らしい映像作品や本はいまだ次々と生まれています。売文の部分はやむなしで、そこで稼いだ「自由な金」によってしか生み出せない映像や本があると思います。公共性が専売でなくなったのが、難しいところですね)