本当の意味の”哲学”といわゆる”人生哲学”と言い習わされるものは違う、と池田晶子さんは繰り返し繰り返しおっしゃった。
そも"哲学”の語からして、"考える”ではなく先人の"考える”を学び覚えること(それ自体はひとつの「きっかけ」とはされていたようだが、必須ではない)であるとの誤解のどうしようもない蔓延、"常識=ドクサ的常識化”にほとんど絶望され、辟易もされ、"哲学”ではなく"考える”でしょう、とおっしゃったのはまず前提だが、それを踏まえた上で、
本当の意味での"哲学”と、人生を上手く処する戦訓、手管、というべききまった反応のことを"人生哲学”と称し、それが"哲学”である、とする向きへの警告も忘れられなかった。
だが、それはようするに"前提を考えずに鵜呑みにする行為”をこそ指摘・気づきを与えようとしてくださったのであり、"人生”というものに対して"考える”ということは、ちょっとわかりにくいが考える、の方の"哲学”の、よくあるきっかけでもある、と思っている。
まわりくどくなった。
要するに、”人生”、つまり日々起きる出来事や、それに対する人間の"脊髄反射的"反応や、いわゆる"処世訓”といいならわされることがらを、違う目でみてそこから"考える”を立ち起こすことは、可能だろう、ということを言いたいのである。
それだけがきっかけたりうるわけではないが、自覚的であれば、意識的であれば、そこから"考える”ことへゆくことは出来る、"人生哲学"に陥ることなく、ということである。
実はそこの類似と安易な思い込みをこそ、池田さんは警告なさったのだろうと思っている。
(今、わかった。"暮らしの哲学”というタイトルの本を池田さんはお持ちであるが、それはそういうことをタイトルで示されたのかもしれない)
そこで、だ。
"希望”、"期待”について考えている。
これは、難しい、"感情”だ。
難しい”条件反射”だ。
日々の暮らしの中で、何かが起きると"希望”を持つ。"期待”する。
だが、どうもなんだか、気持ちよくない。それをもつことは"人生訓"的には、善きこと、とされている気がするが、持っているはずの僕は、なんだかすっきりしない。"善い”という感じがない。
これはどうしたことか。
"希望”は"目標”と言い習わされ、自らの能力や"食べる為に生きる的世界”でのポジションを上昇させるときのわかりやすい”ニンジン”とされることが多い。
これは、これで、そのためには全く必要ない、というつもりはない。
"考える”には"文字”や"コトバ”、が本質的に、ではないが、それを助け昇華せしめる、という意味では圧倒的にあったほうがいいのであり(それは"必須”に大変近い)、その能力を高めるには、"希望”や"期待”はよい目標たりうる。
それはわかる。
”だが、しかし”だ。
それを自然ともち、それを自動的に"目標に設定”する生き方はちょっと待てよ、と思っている。
どうも、よろしくない、のだ。
違うのだ、たぶん。
一つの言葉にあった。
"期待が大きいほど、失望は大きい”。
うーん。
そうか。
池田さん的にいうのなら、"期待”ってなんですか、だ。
期待をもつこと、悪くない、行為なのだろうが、ちょっと”さもしい”。
ちょっと"自分が得したろう”が入っている。
"人より、よくなりたい”が入っている。”よく”は"善くではなく、"欲”につながる”よく”だ。
そう、最近"希望”や"期待”を持ったのだ。それで、上手くいかないと混乱し、悩んだ、のだ。
なんなんだ、自分。
そう思っていたし、そう思っている。
で、前段のように考えたのだ。
うーん、わかっているつもりで、ぜーんぜん、わかってないなあ。
まだまだ、だ。
しかし、そのことを考えるきっかけになっている、ということを考えると、ある意味で"生きる”の”とほほ的美味しさをも、
感じるところである。
池田さんは、違った。大学を卒業され、”なーんだ、わかっちゃった”となり、あとは死ぬまで生きればいいや、と理解された。
それは実は、"希望”や"期待”がない生活。そんなものいるのですか?
そういうことをおっしゃったのだろうと思っている。
そこが始め的終わりであり、"個人としての池田さんの死”であったのかもしれない。
そこから”おせっかい”で”ほっておけない”性格から"縁なき衆生”たる我々を、”まあ、どうしようもないわねえ”とつぶやきながら、生き延びることの難しそうなこの人類の、1000年後、2000年後に向けての"口伝”を、ありがたくも伝える仕事に移られたのである。
"生きる為に食べる”生活のよすがとして"読者モデル”などもなさったところはまた、なんとも痺れるところであるが。(ここ、憧れるところ、ではある)
まあ、そこはさておき、そうして池田さんは"希望”や"期待”のない世界を離れられた。勿論、ご自身はもとから、はなっから、そんな世界とは無縁の精神世界にあられただろう。しかし、所謂"学校”というところは、(これを"会社”といったり"社会”やもしかして"政治”といってもいいかもしれない)"希望”や"期待”がうずまくところだ。それを無意識に、ある意味危険なふうに使い、悪びれない世界だ。
そんな世間から、”わかっちゃった、もういい”と池田さんはおっしゃって、離れられたのである。
やはり、すごいことだ。
"期待”で悶々とする僕とは、なんともはや月とすっぽんならぬ、月とミジンコ、いやそれはミジンコに失礼か、まさに”月とニンゲン”くらい違っている。
それでもって、"蜘蛛の糸”たる文章を残してくださった。
ああ、そうか、池田さんは地獄に蜘蛛の糸をたらす、観音であったのか。
そしてだからおっしゃったのか、"教主扱いされればおしまい”と。
ほっとくとそうなっちゃうんですね。糸、たらしてるんだから。
月、といえば、最近でいうなら”かぐや姫”か。宇宙人、だったのでしょうなあ。埴谷雄高や小林秀雄と同じく。
それで、月に還られるのも、早かったのか。
うーん、いつもの”池田さん賛歌”になってきましたなあ。
まあ、それではこの辺で。。
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