夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

夏の夜僕は悪夢を。

エアコンなしで寝ている。

これが普通なのかはよくわからない。寝苦しい、直ぐ眼が醒める、ということはない。夏は朝しか頭が働かない、という思いがあるので、早く起きたいと思っていたが、通常の休みの日と較べてもより眠っている。

暑さで体が疲れているようだ。会社でエアコンの中働くほうがどうも疲れが少ないようなのだ。

今日で夏季休暇が終了。特にどこぞへゆくということもなく、だらりと過ごした。

夢はよく見るようだ。あまり覚えていないが、どうも悪夢のような気がする。暑い、ということが、悪夢を誘発しているようだ。

休み中は少し本を読んだ。昨日とおとといで読んだ本。宇野氏の本は510ページある。1日で読みきったがさすがに眼が疲れた。

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)

地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)

両書とも震災後に書かれたものである。そしてそのことが大きなきっかけであったり、テーマだったりしている。

小田嶋氏の本は、日経ビジネスオンラインに掲載されたコラムをまとめたものである。総じて、氏の、基本的な良識、コラムを書かざるを得ない姿勢、というものに共感した。”地雷”とされる人が触らないネタを敢えて取り上げる姿勢と、その取り上げ方が大変まっとうな精神によるものだ、と感じた。
そしてネタは確かに地雷だな、とも思った。

なぜそのネタを地雷だと思うのか、そこが一番の問題であり、考えどころでもあると思った。

宇野氏の本、これは正直一気に読めた。これは休みでよかった。朝から晩まで読めたから。夜から読み出せば、これは”しらじらと”朝を迎えていたかもしれない。村上春樹ウルトラマン仮面ライダー村上春樹はしらず、ウルトラマンやライダーは普通はどれだけの知識を持ってついていけるのかはわからない。結構キツイような気がする。

だが僕にとってはまさに”エニグマ”として魂に刻印されている現代のサーガ、神話として位置する2つの物語だ。

箕面のそばの桜井という駅にあった母方の祖父母の家にいるとき、初孫であった僕がいつも駅前のおもちゃ屋へ連れて行ってもらい、(こどもゴコロの子供時間だが)感覚的には1時間は悩んで”ウルトラ怪獣の人形”を買ってもらったとき、祖母は決まってこういった。”いつになったらボクは怪獣卒業してくれるのかなあ”。

僕は”ボク”と呼ばれていた。普通は1人称である”ボク”を2人称で使う呼び方は、この国でメジャーなのかはわからないが、そう呼ばれていた。ちょっと呼びにくい名前だからかもしれない。”自分のことを「ボク」と呼んでいるアンタ”という意味だということは、なんとなくわかっており、それが複雑な呼び方だな、とこれもコドモゴコロに感じていたようにも思う。なんとなく大阪の呼び方のような気もする。大阪日本橋の大店の娘であった祖母ならではの空気を、その呼び方からなんとはなく感じる。とてつもなく、懐かしい。

ところで、そういう祖母のコメントを聞いて僕は思った。”怪獣とは卒業せねばならないものなのか”。
”おばあちゃん”はそういうことで早く僕を怪獣から卒業させたかったのかもしれないが、僕が自らのコドモ時代でほとんど唯一覚えているのがそのつぶやきだ。結果として怪獣が大好きだった僕は、そのひとことで”いや、好きだったら意地でも怪獣は卒業しないぞ”と反発していた気がする。

これもほとんど人生で初めての反発(覚えているベースの)である気がする。

とにかく、怪獣といえば、そういう思いだ。どちらかというと、ストーリーより、ヒーローより、怪獣、という存在に惹かれるコドモだったようだ。宇野氏の切り口である”正義と悪の描き方”は、だから第一に感じていたわけではない。しかし、深く納得した。なぜか。宇野氏の分析にピッタリとあう形で、怪獣や怪人の魅力がなくなっていたのである。

敵方を主に見る視点で番組を見ていた僕は、怪獣や怪人の造型と付与された設定でもって作品の本気度を感じていた。それが本気であればあるだけ、作品が良い、と判断していた。明確な敵を制定できている作品は、敵が魅力的である。なぜだか、そうなのである。
きちんとした悪を、敵を作れていない作品は、当然ヒーローも輝かない。それは勿論設定もだが、造型でも同じである。抽象的な、本来付加できない要素で怪人や怪獣を作る時、つまりキャラクターとして作るとき、敵はうそっぽくなる。

ストーリーと結び付けやすいのはわかる。しかしどうしても嘘っぽくなる。コドモにおもちゃを売りつけたい製作側の思惑が、コドモに伝わってくる。それがたまらなかった。

平成ウルトラマンやライダーを見た時、思った。敵が魅力的だ。これは面白くなるかもしれない。果たして、ティガは(ボクのなかでは)成功した作品となったし、平成ライダーは紆余曲折はあったにしろ今も続いている。子供向けであるが、ぎりぎり製作者の思いは詰め込ませてもらっているようだ。

大人が喜ぶ、ということは、コドモに難しい、ということだ。だからもし僕がバンダイの営業であれば、あまりやりすぎないで、といわざるを得ない。できるだけそうならないように、製作側は”大人にもおもちゃが売れる要素”を入れる。そこが宇野氏のいう”正義や悪の問題と正面から向かいあわざるを得ない”という結果を生む一要素だったように思う。そこの部分の追究が、結果的にこれほど正義と悪の問題、に踏み込むこととなった原因の一つなのだろう。

そう思った。

宇野氏の本の表紙は、実は海洋堂のフィギュアである。怪我をする前の本郷ライダーを、これほどの存在感を持って表現できる文化を維持するためには、正面から正義と悪を考え続けねばならなかったのだろう。

ポップカルチャーなのに、ではなく、ポップカルチャーなるがゆえの仕方のなさ。売れなきゃ作れない、という制約。これがやむなく本気で悪を見すえる眼を、育てることになったのだ。