夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

息づく本たち。

現在は、本というものの立ち居地はいささか危なっかしい。

電子ブックなるものは、いまだ触ったことはないのだが、たぶんキンドルなるものは、端的に便利であろう。音楽へのたどりつきが困難であったから、ituneの手軽さつまり”聞きたいあの音源”へのアクセスの平易さ&蓄積の容易さは、一度手にすれば人は雪崩をうって殺到せざるをえないし、それでCDとは疎遠になる。本もやはり同じ意味でアクセスが容易になるのである。本ならではの挿絵や装丁も必要性はなくとも本というもの、に習慣的に付随していた、という過去形のものの名残として残り閲覧たぶんできるであろうし。

あとのこるのはやはりモノとしての存在感であるが、これは素晴らしいが全ての人がマストとして求めるかといえばそれはそうでもなかろう。が、

やはり存在感としての本は捨てがたいとおもう。

手で触ってみて、重さを感じて、という存在として本というものはなんというかとても愛らしい、と感じる。愛書家、蒐集家に男性が多いのもなにかそんなところが深いところで大変影響しているような気もする。本棚にならべ思想が、作者が、小さな象徴的魂的人形としてならんで座ってこちらを見ているような気がするのはいささかおかしいであろうか?もの問いたげな風情&まなざしで書棚の上から一斉にこちらを見ているように考えてみると、これは例えば本物の人形たちと類したオーラを感じるではないか!

そう思う理由は、本には作者から発した人格が練りこまれている、あるいは作者精神への回路を開くもの、というイメージがあるからであろう。僕の本棚には小林秀雄コーナーがある。勿論1冊を欠いた池田晶子コーナーもある。荒俣宏コーナーでははみ出さんばかりの博物学的画像がうごめいており、川上未映子コーナーではあのからみつく&妙にほっとする言葉が白蛇のようにかぼそくながくとぐろを巻く。

そんな息遣い、そう、生きているとは違った意味でやはり生きているモノとしての存在感、そのようなものが電子データはやはり弱い。遺構、として残る、残ってしまうこともなかろう。例え膨大なバベルの塔のなかに図書がつまったがごとき、キンドルが仮にあっても、それはあくまで個人に所属。個人には完璧に従う情報であっても、残るには諸条件が必要で、あら、なんだこれ、パラパラ、という愉楽からはそれは果てしなく遠い。

たとえばこんな、と例に出すのであれば、”蜜のあはれ”。そう、有名は”あたい”こと金魚の出てくるあの話。とある古本屋で邂逅した歳経りしこの本は、まるで金魚の腹をがばりと掴んだような感触(掴む位大きいとそれはもしかして鯉、と呼ばねばいけないのかもしれないが)。ころりとした出目金の魚拓が、いわばデスマスクとして、真にデスマスクとして表紙にすこし気持ち悪いくらいに美しく、いる。

或いは又、”黒い文学館”BY生田耕作。原本の白水社版ではなく中公文庫版ではあるが、そんな版としての矮小さをものともしない存在感。それはやはりアルフォンス・イノウエ氏の幼女の気配を醸す天使の横顔&後姿の存在感が大きい。

ついつい例に出した本たちであるが、そのまなざしの強さがちょっと強すぎる例だったかもしれない。単に装丁はええよ、といいたいだけなのかもしれないが。


蜜のあはれ (1959年)

蜜のあはれ (1959年)

黒い文学館 (中公文庫)

黒い文学館 (中公文庫)