夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

世界の秘密をひそやかに語る言葉。

”世界の秘密”がひそやかに語られている言葉に出会うときがある。本や新聞や、WEBにもある。日々、いろいろなところで出会う。但し、毎日新聞で絶え間なく出会う、ということはないし、そういう言葉たらん、としてそうなりきれて居ない言葉もある。
大体はやはり作者を選んで読むと良いようだ。それが作家を信頼するということで、そのようなことでそんな言葉に出会う機会も増える。
そんな言葉に出会うと、”言葉とは”とか、”言霊とは”とか、そのようなことを考えたり、思ったりしてしまう。
本を読んでいて、そのような言葉にであうと、せこい話だが、”ああ、この本を千円で買ったが元を取ったなあ”とか”これはおつりが来たぞ”などと思ってしまう自分がいる。それでそんなことを得して自分で持ったままではいけないな、というキブンも少し出てくるのである。ほかの誰かにお伝えしなければ、というそこはかとないギム感も同時に入手するのである。

そんな言葉に最近出あった。一つの例。
読売新聞、12月18日付け書評欄、古井由吉”蜩の声”への川上未映子氏の批評から。

”物と物とのあいだや時間には、実は境目は存在しない。物事は蚊柱のようにあるだけで、内容は常に出入りを繰り返している。境目があるように思えるのは我々の指先や認識の感度があまりに鈍く、またそれらを名づけて区切りでもしないことには、世界の茫漠さと無意味さに、少しも耐えることができないからだ。”

僕はこの文章を読んで、池田晶子さんがおっしゃっていた、”誰がなにを語るかではない、真実を語っているかであり、誰が語ったかは関係がない”というご趣旨の発言を思い出した。(これがどこだったかは現状不明だが)
この言葉が池田さんに似ているなどというのではない。真実を語る人がいて、真実が語られている、ということだ。時間や物事や生や死について、人はなんと多くの膜を目にかぶせており、(それはドクサとか、鱗、とかいわれているが)それをポロリと外すのはなんと難しいのか、外したと思った瞬間にあらたに装着してしまっていたりする。仏教でいう”小悟は数しれず(あり)”というのもこのあたりを指しているのかもしれない。

とにもかくにもこうしてこのようなコトバに今回は新聞を通して出会えたのである。こうした出会いはなんとも嬉しいものだ。ありがたいものだ。

魂のバトン、あるいは言葉のバトン、というものは、このようなものかもしれない。