夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

学ぶとは。

考えるとは、個的なものから普遍的なものへと進んでゆく道行き以外ではないのだから、考える限り、人は必ず個を超出することになるからである。たとえその考えの極まるところで、「私は世界である!」と叫んでいる哲学者とて、まさにそういう仕方によって、彼はその個を超えている。必ず何らか永遠的なものに触れているのである。

    池田晶子 人生は愉快だ P.102 ショーペンハウアーより

昨日は、遙洋子”東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ”を読んだ。今まで、東京、仙台、名古屋に住んだが、生まれてから18年間関西に育った身として感じるのは、関西での本音を示さねばならない瞬間の多さである。キツイ突込み(に感じる、プライバシーにぶち当たる質問)を、久しぶりに会った友人や両親から受けるたび、”ああ、この人たちは人種が違う、生きるのに、DIRECTやなあ”と感じる。セクハラはある。それは突っ込み、相手との距離感を切なく測ろうとする意識の発露であり、他地区では即NGである。しかしその突っ込みを深いところで肯定する部分がある。”かっこつけんと、本音でいこうやないか”というメッセージを感じる。再び言うが、それは危険である。相手が嫌だといえば、そこでセクハラ成立である。しかしあえてチャレンジする。相手との深い連帯感を感じたくて。

僕はどちらかというと、そのような突っ込みのかわしがヘタな方だった。素直に受け取って、落ち込む。しかし、そんな”関西流突っ込み初級者”であっても、他地区では激しい突っ込み屋になってしまうことが多かった。ここはタテマエでええんやな。

それはある意味楽だったし、もしかするとそれは社会人と学生の距離感の違いの部分があったのかもしれない。標準語(関西では幾分の侮蔑とやっかみを込めて”東京弁”というが)を話す自分は、英語で話す(たどたどしいですが)自分と、地元で地元の言葉に囲まれている自分の差と同じくらいのキャラクターの差異がある。
英語、標準語、関西弁、の3つの良く似た人格。

人格とは、個人に固有のものではなく状態である、ということを実感する部分である。言葉が違うだけで、ちょっと違った人格になる。英語=よく分からないがハイテンション、標準語=仕事用?タテマエ用?、関西弁=ストレートな、本音な自分、という感じで。

長くなったが、遙氏の文章を読んで、そうした関西独特のサービス精神を感じた。そして思う。ご苦労さん、気イ遣ってくれてるねえ
(でもそれは関西ではお約束、でも他の地区ではない)。そして思う、これはちゃんと読まんと失礼やな。

テレビでタレントをするということは、この関西ノリがより激しく、刹那的な世界にいる、ということであろう。そのつっこみ、実はすごく傷ついてますよ、でも言わない、みたいな。

そこらあたりの露悪的な部分もきちんと入れないと、関西では”なにカッコつけとんねん”ということになる。これが一番の屈辱だ。アホ、といわれるのはある意味嬉しい関西人にとって、一番かっこ悪いのはかっこつけ、だ。そこへゆくと、カッコつけるのがある意味決まりやすい他地区の皆さんは楽である。すくなくとも、自分ではそう思う。

遙氏の本のことだった。
この本で一番印象深いのは、学ぶ、ということの本来あるべき姿勢が、ストレートに出ているところだと思う。
池田さんは学ぶ、ということについて、

学問とは、学説を身につけることではない。学説を提げて、人生に臨む態度である。

と語っている。 (新考えるヒント、P119 学問)

その先に対価としての仕事が見えており、その対価を得る手段としての”学習”には、基本的にはその”学習”の姿が見えていない。
それはなんであってもよく、更に言えばより少ない努力で、会得することができるものが望ましい。そうした先にある”学問”とは、うそ物の学問である、ということが、やっとこさわかってきて、では改めて自ら学びたい事柄に対峙しよう、という風に、人は普通大学を卒業後に思うのだろう。

内田樹氏は、こうした仕事の為の手段として学ぶことについて述べられている。

”それは知識や技能を習得することそれ自体ではなく、知識や技能をもつことで得られる「利得」に照準することへと子どもたちを向かわせる。
重要なのは知識や技能があることで獲得される「利得」であり、知識や技能はそのための迂回的な「ツール」にすぎない。そう教えられていれば、いずれ子どもたちが「ツール抜きで、利得だけ占める方法」を考案することに知的リソースを優先的に配分するようになるのは理の当然である。
現にそうなっている。
「いかに少ない学力で、いかに高い学歴を獲得するか」という競争にこの国の子どもたちは熱中している。
問題は「費用対効果」だからである。”

  内田樹の研究室 12月25日”福翁の「はげしい」勉強法”より


独学、という言葉がある。上野千鶴子は、自身の”知力の無さ”に悩む遙に、”みんな独学でやってきたから”という。
”東大”に留学していることを、仲間にうまく説明できずに悩む遙にとことん利用しろ、という。

これは、ほとんど中江藤樹のこの言葉、

此身同キトキハ、学術モ亦異ナル事ナシ

と同じことを言っている。

藤樹を評して、小林秀雄は、

彼の学問の本質は、己を知るに始って、己を知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問する責任は、各自が負わねばならない。眞知は普遍的なものだが、これを得るのは各自の心法、或いは心術の如何による。

と述べる(小林秀雄 本居宣長 P.82)。

先達、達人たちが述べる学びの姿勢は、かように共通性がある。ようは自分である。自分とはなにか、そこから始まり、問い始める。

学校で、こうしたことを、教えてもらえればいいなあと、思う。これは池田さんの言う、哲人政治のなかの教育の在り方であろう。ホリエモン華やかなりしころ、学校で株や経済のことを教える、ということに対して、他に教えることがあるだろう、とおっしゃっていた。教えるものでもないかもしれない。しかし、考え方のヒント、こう考えれば、結局自分がHAPPYよ、善く生きられるよ、と示す、それだけでもずいぶん違うと思う。

そしてなにより、自分で考え、自分で学ぶということは、大変楽しいことに違いない。