夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

鬼神(デイモン)が止めるだろうか。

本ブログは匿名である。

匿名で、極私的感想文的日記を、一方的に書き連ねる、といった体である。

客観性は、あまり意識出来ていない、というのが実態であろう。
いわば個人的な獣のうめき、の域を這いずり回る体である。

梅田望男氏も、アメリカでの、ネットで本名を出して責任を持って
議論する風土のことを述べておられる。そちらが、”あらまほしい”と、”剄い”と、”正しい”と、”感じる”。

しかし、それが分かっていて、出来ていない。あたかも、正しいこと(真理・真実・イデア)が、自分の中にあるのに、気づかない振りをしているように。

                                                                                                                              • -

池田晶子さんは、直接・間接(=心の中で)は別にして、安心して語り合える人々を何人か持っていたのだと思う。

まずは、小林秀雄。大学卒業の年に亡くなったということで、直接の会話はないということだが。
そして埴谷雄高。こちらは十分に語り合ったであろう。この2人は年上。

で、やっと自らと対等に語り合える人が出てきた、と喜んだのが、睦田真志氏。

4人目は、最後の公式対談での、大峯顕氏。この人も人生の大先輩という感じだろう。

最後に、直接の語り合いの有無は寡聞にして不明だが、川上未映子
この人は、逆に池田さんと語り合っている方の人かも知れない。

ソクラテスは別にして、日本人の同時代、あるいはそれに近い人々としては、この5人がまずは浮かんできた。

もちろん近しい人で、公的な文章に出てこない、理解をしあう人々がたくさんいらっしゃったのは別にして。

それ以外の人、縁のない人との公的な場面での対話、これは本当は面倒くさがりの池田さんにとっては、真に疲れるもの、であったはずだ。

心から、まったく伝わらない。萎える、という感じで。

しかし、何者かに突き動かされて、自分だけ善ければ、などと誤解を生む言葉を敢えて標榜し、相手をリトマスしつつ、できれば分かってほしいと、実は心でものすごく思って。

それは1000年先の人類に向けて、と池田さんは言っていたが、それは今の人間があまりに分かってくれないことへの徒労感の表明で、実際は今目の前にいる人の魂に向かって、必要だと思われる言葉を、いわば殉教者のように、嫌われるのを承知で、投げ続けていたのだ、と僕は理解している。

だから池田さんの仕事は素晴らしいと思っているのである。

表面だけを聞いたひとは、傲慢だ、という。
しかし、とことん語り合えば、分かるはずだ、という確信を持って、言葉をつむいで来た筈だ。

批判を受けたときは、公開書簡で、議論しましょう、といってこられたはずだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なにがいいたいのか。鬼神が良いと言うか。かなり微妙だと感じていて、なかなか書けないのだが。

つまり、おおありくい氏と、ガン漂流作者の件だ。書くと、僕は池田さんの立場を勝手に身内的発想で、ファン的心理で、よく書いてしまうだろう、というところ、ここをデイモンに聞きたいわけだ。
匿名が実名になる時点で、デイモンの閲覧がされたものを書く、ことになるのだろう。

しかし匿名だ。

池田さんは、初対面に近い女性の腕を”太いわね”と言った。それはなんだろう。言われた相手は深くそれを恨んだ。

当たり前かもしれない。

池田さんの不幸、というか、苦しいところは、客観的に美しい容貌であったことだろう。
しかし池田さんはいいたかったに違いない。死と死に方は別である、と。従って池田某とこの容貌もまた、別々のものであると。

自分がちょっと綺麗だからと、何を上から目線で。そういっても、そうかえされることが多いのだろう。

そうなったら、もう、なんもいえねえ、であろう。縁がなかったわね。

それは悪意がある風に聞こえただろう。しかし、僕には、偽悪的リトマス試験であったように、そういう形で、魂で語り合える同士かを試していた、という風に、感じるのだが。

当事者ではないのだから、そんなこといえるのだ、そういわれればおしまいであるが。

そしてガン漂流の件も、その問いかけを敢えてした、と。
自分もガンですよ、と言ってしまえば(議論になったときにどの程度把握されていたかは分からないが、過去に発症されている)別の流れになるので。敢えて本人に匕首を突きつける感じで。

いまこの状態に自らが接して、
あなたはどう思うのか、と。

ガン闘病をおくびにも出さず。コクヨの100円サインペンが重たくてかけなくなる寸前の最終稿で、のんびりと温泉の話でそこはかとなく自身の思いを漂わせつつ、亡くなられた姿を見て思うのは、そのことである。

美意識。美学。

やせがまん、というのとは違って。
後で、そうなのか、とわかる、という。

改めてすごい人だと、思う。手前らとは覚悟が違う。小林秀雄と並んで、そう啖呵を切られている姿が浮かぶのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この稿、一晩置いてみた。特段のわが鬼神のご指示はないようである。
ので、公表させていただくことにする。