夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

主語。

自分が主語の人生を生きているか。


これはむつかしい。好きでやっていることにも、つい言い訳をしてしまう。

相手にどう思われるか。

そこのところを気にしている。


それは、それでもいい。


だが、言い訳が言い訳のためのものであってはならないだろう。


言い訳ではなく、説明であればいい。一期一会。この場で言葉を交わすこの瞬間の奇跡。


それを想えば、わが想いをお伝えする機会であるのであれば。


言い訳という名の説明を、ではすればいいのではないか。



生きる、ということは、人との関係を気にすることでもある。


悩み、というものはすべて、人間との関係性から出てくるともいう。


自分が主語の人生を生きていれば、主語であるのは他人ではない、自分である。


自分との関係性を、悩まず、そう、考えるのである。



先人、というものがある。文字通り”先に在った人”である。先人により残されたものがある。

書は古典を手本として臨書する、という。臨書。書に臨む。書が先人の遺した心であるのであれば、まさに先人に面することでもある。

書であれ、古典であれ、あるいは絵画であれ、先人の遺したものに一人面する。人に、面会する想いだ。その作品に、その人が最も大切にしたものが、出る。そういうものが出てくるものしか、古典として残ってはいない。


なぜか、そうなっている。時、という篩にかけられているようだ。

池田さんもおっしゃった。古典を読みなさい、と。



時が本物のみを、残してくれるのであれば、読むことは義務どころではない。読むことは、僥倖だ。時に、しかし、古語、という関門はあるのだろうが。


禅の修行には、慈悲心がなくてはならぬという。鎌倉時代の大燈国師の言葉に、「失銭遭罪」というものがある。金を盗まれたうえで罪を負わされる。そのような境遇にあってなお慈悲の気持ちを持つことであるという。


致知、という雑誌を先日より購読している。冒頭に94歳の書家、吉田鷹村氏の言葉がある。

3週間の断食行をされたという。終わりのころには、寝具に死臭が染みついたという。だが、こうおっしゃる。古い細胞が死滅するのでしょう。死にかけているのではない。新しい再生である、ということであろうか。

さらには岩の上で滝に打たれていると、”近くを散歩する人の周りをチュッチュッチュッと虫みたいに飛び回っているものが見える。「ああ、これが人間の気というものなのか」と直観的に思いました。(中略)徹底した心身のクリーニングになったことは確かでした。自分の中に秘められている力を実感しました。”

致知 2016年6月号 P.16


94歳にしていかなる智を持つことができるのか。不明であったがここに素晴らしい先達の姿を見ることができた。


おっしゃる、「人生は前進、前進、また前進です」。


人間、気持ちが前を向いていることが必要なのだと教えられる。停滞を想い、後ろを振り返っている暇はない。今が我が人生で一番若いのであるから。

そして死の前日こそ、新しいことを開始するのに少々遅すぎる時期であるのだろう。

聖母。

仕事は手段ではない、目的だ。よりよい仕事、よりよい作品のために、さらなる精進を重ねるその人は、自らの内面しか見ていない。あるいは自らの内なる「神」を見ている。仕事は神への捧げものなのだ。
 P.78 池田晶子 人間自身 考えることに終わりなく

 ソクラテスがその論戦において常勝したのも、この理由による。君が正しいと思うことが正しいことなのではない。誰にとっても正しいことが正しいことだ。個別を指摘し、普遍へ返す。普遍のロゴスは不敗なのである。
 人がロゴスを獲得するのは、したがって、その正しさを主張するべき自分というものを捨てることによってのみだ。自分の正しさを主張するための言葉は、定義により、正しくはあり得ない。言葉をして語らしめることにより、人は自ずから正しい人になるのである。この事態をもって「ロゴスに乗りうつられる」と私は呼んでいる。
 いくぶん秘教めいてくるが、言葉とは本来そういうものだろう。人間が言葉を語っているのではなく、言葉が人間において語っているのだ。言葉はそれ自体が宇宙である。
 P.86-87 池田晶子 人間自身 考えることに終わりなく

池田さんは、見えるひとだった。いや、オカルトではない、心霊でもない。真実が、あるいは真実にあって人が語っているかが、”別に見たくもないが見えてしまう”。


生きること、仕事をすること。語ること。

所詮、というべきか、結局というべきか、正しさと善のために、人は生きる。ただ、回り道をしているひとはいる、ただそれはそういう段階にあるが為だ。

そんな言い方をすると、「今生」ということばが出てくる。今生の別れ、などという。次回の生であえますね、とそういう意味だ。いささか負け惜しみ、本当にそうか?という意味もどこかにある場合が多いのかもしれないが。

そこで、生は正である、ということばを池田さんが発する。そうか!となる人と、なにを言っているのか、という人がある。それはそうだ、その人の状態によってわかる、わからないがあるのだから。

だが、そこが「神のことば」である、そう、宗教ではない、あなたのなかにある「神」である。普遍的な、なにかである。

それが触媒として働くのであれば、それはそういう”満ち潮”にあなたがあったということだ。寿ぐべきことだが、別に偉いわけではない。たまたま、だ。そこはよく間違えられるのだろう。

偉い、は自他を分けることばであり、言い訳をするためのことばでもある。ああ、私は偉くない、なんてあの人は偉いのか。

まあ、もうだいぶん池田さんはめんどくさくなっている。だが、池田さんは面倒見がいい。放っておけない、だから言葉を残そうとされたのだ。

このことを称して”有り難い”という。紋切りにお礼を表現する言葉にはなっているが、本来の意味は漢字を見ればわかる。そう、”本来はそうでなくても仕方がないが、あなた様のおかげでさずけられたことがらであり、それに感謝します”という意味である。

そして、”仕事”。あなたは生きる為に食べる人ですか。食べるために生きていませんか”

それでも、いい。わからないのはあなたの所為では所詮ない。でもこの言葉で、もしわかるのであれば、いいですよね。

池田さんの構えは、こうである。


すごく、やさしい。


自らのことを”巫女”と称される場合が多かったが、その構えをみると、”聖母”の構えもお持ちだったということがわかる。

”哲学の聖母”。


おお、ちょっと新しくないですか?



正しいことを、正しくする人生。そしてそうであることを、人に伝える。それは、すこしく、”祈り”にも似た、所作といえるのかも、しれない。




 

もみじ。

記憶が定かではないが。



裏をみせ、表も見せて散るもみじ



といったような句があったように思う。

あるいは表裏の順番が逆であったかもしれない。

確か池田晶子さんの著書で、一休禅師の時世の句として紹介があったように思う。

出典を確認しなくてはならぬのだが、いや、昨日歩いていて、ふとこの言葉が脳裏に浮かんで来たのだ。


人は、自らの衰えで寿命を感じるのとは別に、子供に超えられたな、と思うときに、自らの生を振り返る気持ちになるのかもしれない。

超える超えない、は技術ではないだろう。

多分、”心”だ。


子供に、優しく、心配してもらうと、”ああ、この子は私を嬉しく超えてゆくのだなあ”という風な、心持になったのである。

嬉しいような、そしてまた、一人になったような。

そんな心持が、やってきたのである。


そしてまあ、持ち物を意識した。


墓場にはなにも持ってゆけないという。だが、たとえば、棺おけには思い出の品を入れる。そして埋める、あるいは焼く。

絵を購め、それをわが身とともに焼くように望む金持ちがいると聞く。だが、これをきくと思う。”わがままである”と。

持ってゆけないものを持ってゆこうとする、エゴイズム。基本現世のものであるものを、あの世とやらに持って行こうとするあがき。

これを称して”悪あがき”。


というようなことを思えば、物を買う、ということは、どういうことなのだろうか、と思うのである。


一つの基準がある。我が好みを美意識として”次代へ遺せるか”というものだ。

かの人の好みは、これであった。こういうものが、好きな人であった。

いや、これは思い出の強要なのかもしれない。

だが、”やさしさ”を感じた時、そのやさしさは、その面倒くささを受け入れてあげますよ、というメッセージでもあったのである。

あなたを思うという、人生のひと手間を、掛けてあげますよ。

やさしさは、そういう意味をも、内包する。



だから、たとえば、持ち物は、身の回りに置き、”愛用”する。

たくさんは、いらない。買ってみて、厳選する。


偏愛する。愛玩する。弄ぶ。

当然、変形する。金属でさえ、それは傷、あるいはかすれとなって。


本であれば、たとえば書き込み。あるいは、裏表紙に貼り付けた一枚の”蔵書票”であるかもしれない。


物を買うとき、そして特に”なくてもいいが、欲しいもの”を購うときは、そんなことを考えるようになった。

物が将来必要であるから、買っておく、という時代があった。それは本であるときもあった。

将来、今はいらないが読むことがある可能性を感じた時。


それを保険のように買っていた。そう本は”一期一会”でもあるので。


マスプロダクトはそれがない。”別のどこかで、モット安く”。

一期一会感のない、買い物。それはすこしく楽しみが少なそうだ。

だが、とにかく、”これから先のため”の知識や物は、減らしてゆこう。

そして、買おう、”今から必要であるもの、これから一緒に過ごすもの、そしてもしかしたら喜んで引き継いでもらえるかもしれないもの”。

モノしかり、本しかり。


それこそが”遺す”の、正しい意味であるように思えてきたのである。

子供の、優しさに、触れて感じたこと。


これは、親である、ということで初めて得ることができる感触、なのかもしれない。


ありがとう、いや、”親が親をやるのは人生で初めてである”というのはこういうことだろう。


子供にとって親はなんとなく”ずっと親業をやってきたヒト”になぜか見えるのは不思議であるが、ただこれは、”そういう風にしておいたほうがいい”と世界が感じてそうしているような気も、なんだかするのである


ああ、そうそう、冒頭の句、”かっこいいものだけではありませんよ、とほほなモノも、あえて遺しますよ”。


そんなところもまた、”遺す”の作法のような気もするのである。

垂直的孤絶性。

ご自身のありかたの一つの表現として、池田さんがおっしゃったこと。

これは前にも引用したかもしれないが、ユングが元型論で述べている無意識の構造とは、こうである。

集合的無意識とは「こころ」全体の中で、個人的体験に由来するのではなく、したがって個人的に獲得されたものではないという否定法によって個人的無意識から区別されうる部分のことである。個人的無意識が、一度は意識されながら、忘れられたり抑圧されたために意識から消え去った内容から成り立っているのに対して、集合的無意識の内容は一度も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している。

 C.G.ユング 元型論 林道義訳 P.10

考えてみると、無限は意外に身近にある。例えばこの身体。からだを構成する物質は、形を変え、受け継がれてはいるが、永遠のかなたに繋がるものだ。

宇宙もそう、空もそうだ。

その限界を、”考えることができない”

あるいは”存在しなかったまえ”があるのかないのかが、思考不可能である。

物質もそう。ないところにいきなり出現したのだとして、その”ないところ”はあるのかないのか。

精神は、この私の精神は、どこから来て、どこにゆくのか。

生命とは、なにか。死ぬとは、なにか。


永遠にわからないものばかりのなかで、生きる僕もまた”不可知”。

禅の心はこのあたりにあるのかもしれない。この私のなかに”仏”はある。すべてのものの中にある。

ある人が、偉いとか偉くないわけではない。ないひともない。

みんなある。


だが気付くにはある一定の心の”高まり”のようなものが必要であるようにも思う。

触媒、による高まりでも、もちろんいい。

そう、いつものあれ、ですよ

そうそう、”池田晶子”さん。


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えーと、久しぶりに小説を読んだ。

これ。

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

一時期、小説をかなり読んでいた。子供のころは、本といえば、小説のでことであった。

おとぎ話好き(いまでもだが)であったので、自然にファンタジーやSFを読むようになった。

まあ、時代もそのような感じであったのだろう。これもここで何度か呟いた記憶があるが、小学校の時校庭で友達を座って本を読んでいたとき、そしてその本はたしかフリッツアンドライバー(だったかな)の創元推理文庫の中に含まれるファンタジーっぽい本だったように記憶するが、いきなり先生に本のタイトルを見られて、そして”こんな本を読んでいるのか”と言われたことがあった。

そも、本のタイトルをいきなり見られる、ということは微妙である。そして見た後の感想は”なんだこんなものを読んでいるのか”。

悔しかった。ただ、小学生で文庫本、という図がものめずらしかったのかもしれない。

こうして歳をとってみると、そう思う。

悔しかったが、瞬間思ったこと。それは、”先生をうならせるような本は絶対に読まない、自分は意地でもこの分野の読者を貫くぞ!”ということであった。

本を読む、ということの孤独と自己判断性、自己責任性を、それこそ本を読む、という行為を通して感じていたように思う。小学校4年くらいから、そうした想いと”子供”という役割のぶれを感じていた。そう、そして気持ちと心は、そのころと余り変わっていない。

そのころ、”僕”が生まれたのだろう。

中身は、全然人に誇れるようなものはない、が、すきなことはいまだしています。

小学生の僕に伝えたいこと。そんなことを思い出させてくれるようなよき本であった。おすすめ(いや、有名な本ではあるが)。


ほとほと思う。こどもの時の”電撃的一言”はその後の人生をけっこう左右する。

この”こんな本を読んでいるのか”は、僕の読書のみならず趣味世界を、そして同じく小学生の時、靴箱近くでかがんでいた僕の背後からかけられた”出っ尻”という言葉が、この30年以上にわたるトレーニング好きの性格に繋がったのである。

コンプレックス、というものの持つ、心の力を、思う。

私が。

”私がわたしにつぶやくのではない。私がつぶやきによぎられるのだ。つぶやきは「絶対」の自己確認であり、無私の私がその場所となる。”
池田晶子 事象そのものへ! より

私の中の神を信じる。

私が神なのではない。

私が永遠と連なっているからして、その永遠の中に神が”在る”。

仏にあえば仏を殺せ、と禅はいう。

そとにある”似非仏”は殺せ。

神は一にして全である。

魂は一つにして全である。

宇宙はこの心と魂を含み一つである。

一つであることは素晴らしいことだ。

人が動く。天体が動く。

それは”生物と無生物”の差異は無きに等しい。

どの動きが生物的で、どの動きが無生物的なのか。

それでいうなら、魂は”生物の専売特許”か

いや、そうであるかどうかは永遠にわからない。

いや、わからない、は不正確か。

わかっている、あるいは、”真実である”。

神を神と呼ぶことは誤解を生む。

神は天である、と古人はいった。

天体は神である、と先人は言った。

笑い事ではない、神話でもない。ファンタジーでもない。

それは真実だ。

いや、天体が人格をもつ、というわけではない。

すべてが一である、という意味だ。

一つにして多様。だが多様であることの意味はなにか。




生きていることは素晴らしい奇跡である、と池田さんはおっしゃった。

すこしずつそのことの意味がしみ込んできている気がする。




しかしそのことはなかなかわからない類の事柄でもあるのだ。


これには月日と、あと何かが必要だ。




そう、例えば池田晶子さんの魂のような。




宗教的意味が薫染している言葉ではあるが、敢えて使う。

”導き”である、と。

禅の作法。

池田さんが禅に惹かれていらっしゃったのは、なんとなくわかる気がする。

ユング、にも惹かれてらしたような。。


池田さんが惹かれたものにはとりあえず無条件で(?)接しましょう、ということで、すこし禅の関係書などを読むことがある。

禅。思想と実践。


禅寺での参禅を2回ほど行った。座るのはいいが、読経の際の正座がきつい。とにかく、きつい。

結跏趺坐は組めないが、参禅時はできる足でいいので、そちらのほうはありがたい。


栗山千明さんの表紙に惹かれて、前に買っていたこの本を読んだ。

身体と心が美しくなる禅の作法―だれでもできる一日一禅

身体と心が美しくなる禅の作法―だれでもできる一日一禅

あごを引いた栗山さんの首筋のラインが素晴らしい。


内容を見ると、座禅以外の何点かの作法に気づいた。


歩き方、叉手と緩歩。叉手では身体の中心を意識して、体の筋肉をくまなく使うことを意識する。緩歩では、”歩歩是道場”。

片足を水平に出し、重心を移し、すりあしでもう片一方の足を移動する。

WALKINGでの手を振り上げる姿勢は、理屈はわかるがなんとなく美しくないと思っていた。ちょっと軍隊感があるからかもしれない。

筋肉で地面を蹴る歩き方とは正反対(これは最近間逆、というようだがこれにも少し違和感)だが、継続して続けられることと、足の裏と地面とのアース感を意識する、という意味では理にかなっているように思う。

日々の生活で、歩き、すわり、立つ。食べて寝て、トイレにゆく。

このすべてを意識して生きる。これは瞬間を生きる、ということとたぶん地続きであろう。

今を生きる。

池田さんの教えにも繋がるなにかがあるように思っている。

幸せになる勇気。

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

を読んだ。

気になった部分を抜き書きしてみる。


”「教師は子供たちの心を形づくり、人類の未来は教師の手に委ねられている」。” P.292

池田さんは、ふがいない教育現場に業を煮やし、好きでもなく興味もない政治の世界で、敢えて文部大臣(当時)になる、と檄を飛ばされた。

そんなことも思い出した。



”政治革命ではない、教育革命による人類の救済” P.291

教育は自己を教育するしかない、とどこかで読んだが、ここでアドラーがいう教育もまた、結局は”変えようという意思をもって自身を教育する”という意味であろう。

この本は、読んでいて気持ちがよかった。

たぶん多くの人がそう思うのだろう。

そして多くの人が読むことで、人々の関係が良くなる方向に行くように感じた。組織も、よくなるように、感じた。

本、というしくみが持つ力。それは、教育とも近いかもしれない。



"「アドラー心理学は、ギリシア哲学と同一線上にある思想なのです」" P.289

哲学、と心理学、の差異がよくわからない。ユングも日本と欧州での評価は違う、と聞く。

それがどのように呼ばれようと、僕個人には関係がない。その思想を読んで、どう感じるか。それだけだ。

そういう意味では、アドラーには惹かれるものがある。ユングにも、だ。そしてもちろん池田晶子さんにも。




"われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれるのです。" P.280

ああ、この2日ほどの雨を経て、晴れてきた。

なんとなく、外にでるのがおっくうだったが、いま陽の光を浴びると、気持ちが浮き立ってくる。

この本を読んでも、自らの生をひきうけることが、結局人がこの生のなかですべきことであるように思った。

魂の世話。

これはとことん自分自身に向き合うことを指すことばだ。


"哲人 ある人から「人間が変わるのに、タイムリミットはあるか?」と質問を受けたアドラーは、「たしかにタイムリミットはある」と答えました。そしていたずらっぽく微笑んで、こう付け加えたのです。「寿命を迎える、その前日までだ」。"
P.278-279

"(前略)現実としてわれわれは、別れるために出会うのです。
(中略)すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。"
P.277

→死を想う。生きるとはそういうことかもしれない。死は別れなのか。そうでもあり、そうでもないかもしれない。そこでの思想の伴走者としての”宗教”の役割もあるだろう。

相手をそのままの姿で、なにも期待せずにただ愛する。それが”最良の別れ”につながってゆく。

人生すべてが一つの自己の作品である。

。。。そんなことを想った。



"彼は自らの心理学を「すべての人の心理学」と位置づけ、アカデミズムの世界から遠く離れた、人々のコモンセンスとして生き続けることを希望しました。"
P.276

"「世界はシンプルであり、人生もまた同じである。」(中略)
「シンプルであり続けることはむずかしい」(中略)
ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気なのです。” P.274-275

生き方、という。生き方の基本原理のようなものを、僕は池田さんに頂いた気がしている。迷ったら、先を、はるけき先を走る池田さんのつぶやきを参照しよう、という風な。

だが、日々の暮らし、夜になれば心は雑音に溢れる。

朝はすこし落ち着くが。だが、シンプルに行くことは、むつかしい。軌道修正しつつ、戻しつつ、歩み続けるしかない。


”われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。” P.272

”たとえば、相手の好意をなんとなく察知した瞬間、その人のことが気になり、やがて好きになってゆく。こういうことはよくありますね?
青年 ええ、あります。ほとんどの恋愛はそうだといっても過言ではないほどです。” P.258
”愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」”P.271

恋愛の始まりに、自分が傷つきたくない、という心理が働いていることは、よくわかる。そこに担保がある。

それをわかったうえで愛、という行為を考えることは、新しい。

”哲人 ・・・・・・あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく、もっと安直な「楽になりたい」だったのではありませんか?” P.270

愛、という名で、楽になりたい、という想いを隠すことは、確かにある。

愛には、責任がり、共同作業である、ということには、頷かされる。たしかに、そうだ。