夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「私を見よ」

出エジプト記33章20節

 

また言われた。『あなたはわたしの顔をみることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである』」

 

 この癖、”新年にはなんとなく改まった感じがする”を楽しんでおります。

 

会社勤めは実は時間通りに動くので、例えば通勤列車では本を5分位くらい読むこともあるが、これはこれで結構集中する。

 

で、”ああ、この瞬間に良い文章に(考え方に)接したわい”などと

 

詠嘆老人のような感想を脳裏に抱きながらはやあしで会社の門に向かう、などという日々は、これはこれでなかなか霊妙であったりする。

 

なので、つい休みになると、”あれ、時間をだらだら使っているなあ””グルテンフリーをできるところでやる、ということが出来てないなあ”

 

なんて想いも去来するのだが、

 

まあ、それもこれも”マインド”が”この5大元素の戯れたる「我が肉体」が”(BY マハラジ)思っていることだなあ、

 

送らず、迎えず、応じて而して蔵めず

 

であるのがいいよなあ、

 

すべては自動的に起こる。起こることを”変えたい”と思うこともまた自動的に起こるのであるが、その想いを”迎えず”、応じて“蔵め”ないのがやはりいいなあ

 

 

 

だからグルテンもよし、だらだらも運動不足もよし、そしてまた”運動不足なので散歩に行くかあ”も又よし。

 

 

 

 

 

すべてこの世はこともなし、

 

 

 

 

という語の深いところの意味あいは

 案外こんな感じなのかもしれない。

 

 

 

 

などと思っております。

 

 

 

 

あ、冒頭の引用、イエスを見ると”懼れ多くて 雷に撃たれるが如くぶったおれる”という風に読みがちですが、

 

たぶんこれはそうではない。

 

 

”生きるとはなにか”という”生きている、ということはなにか”という、”生きていると思っている”こととはなにか、という問いに、皆さん面しますよ、という

 

 

 

そして”生きている”こととは違う世界に、行きますよ(=”死んでいる”ともちがうかも)、

 

 

そんな意味ではないかしらん、

 

 

と思いました。

 

 

 

 

本年もどうぞよろしくお願い致します。