肉体。
言葉を慣れ親しんで使っているなかで、
ふと言葉、あるいは漢字に含められた、成り立ちに関わる
先人の想い、というようなものを感じることがある。
例えば
”自分”。
これは池田さんもどこかでおっしゃっていたように思うが(どこだったかな)、
”だれか、あるいは意思のないところからの意思により”自らにわけあたえられた部分、
という語感をワタクシは感じる。
分け与えられる、とは
なにから?
全体、みたいなものが、あるのかな?
なんか、あるように感じる部分、あるなあ、
そういうことなんかなあ??
(あ、いまのは私の脳内呟きです←標準語とのバイリンガルですが(笑)、独り言と家庭内(ワタクシ以外関西人なし)ではずっと神戸でのはなしっぷりと変わりません)
と思わされる、”深い”言葉である。
言葉を味わうことで、言葉に込められた想いや哲学、先人がそれをそう、思ってきたこと、がじわり感じられる。
そして”肉体”。
最近読んでいるマハラジでは
あなたは、肉体ではない、
ということをいい、そのことに気づくように促す。
肉体ではないのか?
3-4歳?で意識が生まれ(=自意識?)、生まれた意識とは”自分”とは”この肉体であり、この考えである”という自己同一化、と言ってもいいだろう。
しかし、肉体ではない、という視点を持てば、崩れる。
服で装うこと、”服を着た自分”が”自ら選んだ例えば車に乗ること。
これは、入れ子構造だ。
服で自らの想いや内面を表現する、という要素。
これが強い人と弱い人はあろうが、防寒面以外、あるいは防寒が確保されたのちに出てくる。
いわゆる“衣食足りて”の衣食の部分。
私は比較的この感覚が強かったようだ。
思い出すのは小学校4年の時。
転向した小学校で、“強制ではないが、みんなが着ている服”があった。
”スモック”と呼ばれていた。
黄土色、だった。
どうしても着るのがいやで、先生に“強制ですか?”と聞いたものだ。
その時の先生はありがたかった。
”強制ではない”
としてくれた。
結果、スモックを着ることなく、ひとりセーター姿で卒業写真に写っている。
いや、そういうエピソードが言いたかったわけではないが、まあ、つまり、
服装に内面吐露、を感じがちであった、そしてある私である、ということが言いたいのだ。
車、も似ている。
これも子供の時、まわりの車は白ばかり、という印象を持っていた。
”いつか大人になって車を持つことがあれば、絶対に白以外にする”
と決めていたものだ。そう、している。
つまり、そのころから”同調圧力”を感じ、そこから逃れたい、ということを思っていたのだ。
入れ子構造、でいけばこの肉体。
肉体も、栄養健康が確保、あるいは”維持してゆく意思のもと管理”があればそのあとにくるのは、”我が肉体をデザインする”意識であった。
この意識、服で装う、車にこだわる、という入れ子構造の一番身近な運用だ。
つまり、どういうこと?
肉体は、服のように、車のように、購入するのもではないにしろ、
”与えられ”、”意思のもと管理し””衣食足りた状態のあとは自己を顕示するツールになる”
という要素では共通のものだ。
そこから来た感覚。マハラジを読んで。
そうか、肉体とは自分(=私)ではない、のかもしれないなあ、
であった。
服が、”自分の服”、車が”自分の車”であることと同列で”自分の身体”ということはある。
だが、
それは”私”ではない、という
そういう気づき?考え方??
に対し、なるほどなあ、
となったのである。
SPECといってもいい。属性。色。
服は形と色がある。(選ぶのは自分だが)
からだも色、形、大きさ、太さ細さ、含有する脳の機能、
含まれる筋肉でできること、視力、声、
これは選べるものだ(自由度の問題はあれ)。
(選ぶ、とは、持っているものを磨き上げ、あるいは鍛え、あるいは脱色、着色し、といったような要素)
うーん。
そして”自分”と思っているこの気持ち。
これも”自意識”が生まれたあと、経験や感覚や、住んでいる場所、機構、まわりの
人々、学び、会社、家族、といった要素により形作られたもの。
つまりそのほかに
呼吸により生命活動を与えられているといういわば”人生”という名の3Dゲームの中の
SPECなのか。
そして”ゲーム”で戯れる(退屈なので)絶対にして一なるもの、
が”私”なのか????
うーん、今はそうなのかもしれないなあ、
という想いの中にいる。
マハラジの考えのなかで、
闇と光が、空間にある。
空間、属性と時間と限界(=境界)のないもの。
そこに闇や光が、在る。
その考えに接する前は、闇が空間だと感じていた。
限界の無い闇に、”はじめに光あり”。
闇も”空間”の中にある?
入れ子???
これはもう”感じ”。
感じ的には、”そのようなのかもしれない”と
いうところに
漂い中です。