夢おち、ということばがある。
あまりいい語感ではない。
だいたいは、まとまりきらない、とっちらかった、大風呂敷の話を
強引に落とすときに無理やり全部夢でした、
としてまとめる手法のことで、
オハナシとしては下の下、という印象がある。
”夢でしか落とせないのか””面白い話であったのにがっかりした”
というような反応が出てくる場合もあろう。
有名なところでは、ドジスン教授のアリス、
あのお話は、川辺で姉の膝で眠ったアリスが見た夢、全ては夢でした、で落ちる。
あの幻想が好きであるので、夢おちかあ、と残念に思った記憶がある。
もう一つ、本ブログのタイトル、”夢見る様に、考えたい”であるが、
これは池田晶子さんが、考える、ということを大切になさっていることに加え、
夢、というものに(僕から見ると)たいへん重きを置かれている印象があること、
そして、前述のように、僕自身はあまり夢、というものに重きを感じないのが本音であり、
しかし、ではなぜ池田さんはそのように夢を重要視されるのだろうか、という気持ちがあったことから、
タイトルに敢えて”夢”を入れた、入れてしまった、ように思う。
池田さんは、例えば夢日記をつけられた経験を記されたり、ご自身の中で夢と”この世のあれこれ”の軽重があまりない、という風な印象をお持ちだったりするように思う。
僕自身は、そもそも夢をあまり覚えていない。あるいは夜半に目覚めてあまりに見た夢がリアルかつ面白かったことから、そしてこうして目覚めている(ように思う)時間にこれほど鮮明に覚えていることから、
ああ、朝おきたらメモくらいつくるか、
といった気持ちで再び眠るようなことが結構あったりするのだ。
しかし、朝起きてみると、
あれ?
あの夢のリアルと質感と面白さは、
どこにいってしまったのかな??、
である。
あるいは、無味乾燥な断片、なにが面白かったのかな
と思ったりする。
であるので、自身の本音では、夢とは眠りのあいだに今この肉体の一部であるこの脳漿が脳味噌が脳幹が、現実の諸条件を解き放たれて、自由に暴走妄想するだけのことである、ああ、この身体を休める眠りにふさわしい、脳の遊戯タイムだ、くらいに思ってきた。
だが、池田さんに加え、たとえばマハラジを読むと、
この”現実世界”も”夢”も同様に、ワンネスの遊戯、絶対の空間に仮に時間と5大元素が集まり、この肉体この限定された心(=生きる)を以て”起きているように見える”だけのことであり、実際は何も起こっていないのだ。夢もまた。
などということが書かれていたりする(勝手な私の把握ですが)。
ちょっと視点がずれてくる。
現実とはこの手触りである、触れない夢は夢である、と
思ってきたのであるが、
果たして”触れる””実感”とはなにか、
”触れ”ても所詮神経という仮のものが、5大元素が仮にあつまった”人”や”もの”や”光”や”影”や、
”時間”のなかで”仮に”うごめいているこの永遠の一瞬であるだけなのではないか、
と思えてくる。
そうした視点で考えてゆくと、
それは果たして”夢”と本質的などんな"差”があるのだろうか、
いやあ、無い。
無いいよなあ・・・
と反語の学習のような感想が、浮かんでくるのであった。
たぶん、そうだ。この
手触り、実感、
これに重きをおくのは(この”体”この”脳”が重きをおいてしまうのは)、置かないとこの”生”、”エゴ”が
立ち行かなくなってしまうから、なのかもしれない。
”巧妙なる逃げ”。自然に起こる。
........またまたとっちらかった感想を書いてしまいました......
まあ、この世は夢、胡蝶の夢、ということで、
どうかお許しください(←夢おち)。