約15年ぶりくらいで大学時代の友達に会った。
山形で先生をしている。
よく聞いていた通り、瞬間にあの頃に戻っていた。
戻ろう、とは思っていたのか。あったかもしれない。だが作為とは別の”心”の作用で、あの頃に気持ちが強引にタイムスリップした感じだ。
友人は土産をくれる。jojo関連だ。
こちらはおずおずと”この歳で”作った絵関連goodsを差し出す。
”あのころ”のままだ。
もちろん、ふと気がつくと、子供がいる、家庭がある。
なんともはや、子供はすでにあのころ友人と出逢った歳である。
”ジブンハアノコロノオヤにナッタノダ”
よく子供と親の人格が入れ替わる話があるが、なんのことはない、それは”日常”であったのだ!
・・という発見があり。
そも日々の実感、それは”心”の不変である。勿論外見は変わっている。だから会社にいればそれなりに”オッサン”であり、”近寄りがたい立場”の鎧に覆われて過ごしているのかもしれない。
だがしかし。みんなこんなだったんだなあ。
いってくれよ。
親は親であることは初めての体験である。歳をとることも一回限り。
当たり前だが、なんとわからないことか。
みんな初めての中にいるのだ。
ユングは言う。
”私の一生は、無意識の自己実現の物語である”
(ユング自伝1 p.17)
安易な”自分さがし”ではない。そうなるべくしか人はならない、ということを言っているのだ。
小林秀雄は、ソクラテスを評して言う。これはあたかも、自分自身をはからずも評してしまった好例であろう。そしてその姿勢が池田晶子をして、”この人は本物だ”と言わせた肝の部分であろう。
”どんな主義主張にも捕われず、ひたすら正しく考えようとしているこの人間には、他人の思わくなど気にしている科白は一つもないのだ。彼の表現は,驚くほど素直と無私とに貫かれ、其処に躍動する一種のリズムが生れ、それが劇全体の運動を領している”
(本居宣長補記 1979年)
小林秀雄の哲学 高橋昌一郎 p.230 より引用
そしてまたユングは言う。
”人間は、人間が統制することのない、あるいはただ部分的に支配するに止まる心的過程である。したがって我々は、自分自身についてもあるいはまた我々の一生についても何ら最終的な見解をもたないのである。”
”人間の一生は心もとないひとつの実験である”
”一生は、私にはいつも地下茎によって生きている植物のように思われたのである。”
”結局、私の一生の中で話す値打ちのある出来事は、不滅の世界がこのつかのまの世界へ侵入したことである”
(ユング自伝1 p.18−19)
ユング、名言のつるべ撃ちである。81歳から語りはじめ、83歳で完成したこの自伝、自分の生存中は発刊されないという安心感を持って初めて語りえた人生の総括。
この言葉を読めただけで、この本の価格でおつりがくる。
善い本、というもの、それは”ああ、この本を読んでなかったらどうなっていたか”というヒヤヒヤと感謝の念のことだ。
そんな本が、たまにある。
僕にはまずはいの一番に池田晶子さんの本。
これは出会っていなければ、いまどうなっていたことか。
ユング自伝1,2.これは安価な本ではないが、見合った以上の価値がある。
教科書で知る作家名は、その作家の作品を読むことが、お仕着せに感じられたり、お勉強の義務にかんぜられたり、というデメリットがあり敬して遠ざけることになるのが、今考えると勿体無いのだが、そんな作家の代表作。
ああ、”教科書で書かないで呉れよ”本の代表であるだろう。
僕には、すっかりささった。
最近では前出のユング自伝1と小林秀雄の哲学 高橋昌一郎を同時進行で読んだ。
ユング。1875-1961.第一次世界大戦を経験。
小林秀雄。 1902-1983。1983年3月1日午前1時40分、「腎不全に伴う尿毒症および呼吸循環障害」により死去。第二次世界大戦を経験。
ちなみに池田晶子さんは、1960-2005。2005年2月23日午後9時30分、腎臓がんのため亡くなっている。僕は讀賣新聞3月3日付けで見た。会社に行く前に記事を見つけたときの思いはいまもありありと思い起こすことができる。
ミシガン大学留学時代に小林秀雄をボロボロになるまで読み込んだという高橋氏の小林に対する思いは深い。そして深いが故の理解や指摘は鋭い。
ちなみに氏は、池田さんの小林に対する思いにも言及する。前出書中の池田さんに関する記載を読んで、僕はすこし虚をつかれた。
深い”同志感”を感じたのだ。
他人のこうした感覚には、僕は立場上?敏感だ(笑)。
p.18を見てみよう。
”夭折した作家の池田晶子は(後略)”。
”池田は、小林が逝去した年の春に慶応大学文学部哲学科を卒業し、雑誌モデルで生計を立てながら「哲学エッセイ」という執筆分野を確立するという離れ業をこなした人物である。”
・・・。
勿論池田さんは夭折だ。夭折、ということばには愛惜がこもる。もっと読みたかった、惜しい、惜しすぎる、という思い。
そうなのだが、夭折、ということばを池田さんに捧げる文には、いままで余り出会わなかったようなのだ。
そこに虚を衝かれたのだ。
作者の高橋氏の生年を見て納得した。
1959年。池田さんと同世代だ。誕生日がわからないが、場合によっては同学年、あるいは1コ上。池田さんは、年下なのだ。
池田さんへの評価も嬉しい。池田さんが読者モデルをなさっていたことは存じ上げていたが、それが”生計を立てる”レベルであったことは、わからなかった。そも知識不足な僕は”読者モデル”がいかほどの稼ぎになるのか知らないし、名称からいってちょっとプロとしての稼ぎになる印象がなかったのだ。
小林本を読んで、池田さんに出会う。
池田さんを知るものにとって、当たり前であるのだが、それでも嬉しいものだ。
高橋さん、ありがとうございます。
そして、高橋さんの著書で一番の(僕にとっての)読みどころは、p.229にあった。
”ここまで書いてきて、どうしても不思議に思っていることがある。
それは、なぜ小林ほど知的に優れていて、感性の豊かな天才的人物が、現実の「科学」が解き明かしてきた「宇宙」や「生命」についての驚異的な発見や理論に興味を持たず、「オカルト」や「擬似科学」をナイーブに受け入れてしまうのか、ということである。”
こういうことが、疑問として提示されている事が、非常に新鮮であり、インパクトがあった。
なぜなら、、僕はぜんぜんそう思わないからだ。自然に、科学、興味ない。生命は解き明かすものだが、意味が違う。
その肌合いは、ユングも同じだ。
それを不思議と思うところを読んで、此の世には”理系”と”文系”という区別が確かにあるのだ、と感じた。
池田さんの科学へのアプローチも同じだったと思う。
池田さんは宇宙の写真を眺めるのがお好きだった。
2001年哲学の旅”でさまざまな科学者と対談された。さながら”異星人訪問”の趣きである(笑)。
苦笑しつつ、感じる。”我は池田さんの側だな”と。
嬉しい、のだ。
池田さんに、小林秀雄に、魅入られている。なんとも贅沢な囚人だ。
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