夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月16日 真の従順について。マイスターエックハルトの言葉から。

昨日は飲み会。

 

やはり過信は恐ろしい。酒を飲むといくらでも食べられる、と思い、今までも酒のあとには主に特盛牛丼やら特盛カレーやらをしめに食べてきた。

 

昨日は締めにラーメンに誘われた。よしきたとばかりに食べると、ボリュームが満点、なんと食べきれないではないか。

 

で、残して出ると満腹すぎて歩けない(まあ飲みすぎかもですが)。で、なんとその場でゲロって(すみません)しまったではないか。

 

リバースは今までほとんどせずに満腹のまま寝入る、ということで来たのだが、やはり胃がすこし小さくなっているのかもしれない。

 

前もホテルバイキングで食べすぎてその後トイレで唸っていたこともあったし、少し戦略を変えていかねばなるまい、と思っている。

 

ということで、今朝の体重66.6kgの悪魔の体重。体脂肪は10.7%くらいだった気がする。

 

 

真実の、そして完全な従順こそ、一切の徳にもまさる徳であって、いかなる大事もこの徳なくしてはありえず、またなされ得ないのである。(中略)任意にどんなつまらない仕事でも考えて見よ、もしお前がそれを従順にもってなすならば、その仕事は一段とその品位を増し、尊いものとなる。

 

マイスター・エックハルト 神の慰めの書 P.16 講談社学術文庫 相原信作訳

 

真の従順について、という項目から引いた。

 

従順、ということばは結構難しい響きがある。強制的に従順を強いられる、ということがまず浮かぶからだろう。

 

つまりは我が意思に反することをさせられる、という響きである。

 

 

だがここでエックハルトが述べる「従順」は全く違う意味である。強制ではない、自発、あるいは「神を感じたときに起こる気持ち」による従い、とでもいおうか。

 

いつも言っているのだが、私は特定のいわゆる「宗教」を「信じる」ものではない。だが「信じる」ではない「考える」によって、神という概念、人類がその言葉で示めそうとあがいてきた、苦闘してきたそんな考えの系譜のようなものにアプローチしたいものだ、と思っている。

 

上掲の書は昭和60年に再刊されたもので、解説を当時京都大学の教授であった上田閑照氏が書いている。同書は戦後まもなくの昭和24年に刊行され、ながらく日本で唯一のエックハルトの訳本であったことと、同じくながらく唯一の専門研究書であった昭和23年(1948)刊の西田啓治著「神と絶対無」と共に上田氏の座右の書であったということが書かれている。

 

京都大学に4月に入学してすぐの4月に応召、10月に福音され翌年の昭和21年4月より再び学生となられた思い出を語られている。結果的に数か月の軍隊生活となったわけだが、当時は応召すればほぼ命がなくなるだろう、と覚悟をしての入隊であったろう。詳しくそのあたりは書かれてはいないが、戦後の学生生活でも一日一度、しゃぶしゃぶした雑炊を丸一日分の食料として学生食堂で支給される日々であったことも合わせ書かれている。

 

昭和60年、戦後20年で氏が母校の哲学教授となられ、当時の学生食堂で一汁三菜の食事をしている学生を見て、襲われたという「不思議な悲しみ」について思う。ここ神保町で、昭和60年、1985年からまた更に38年もの年月が過ぎている。

 

そのあと氏はスウェーデンの老宗教学者エズマン教授の「豊かな社会のアンチテーゼとしての神秘主義」という言葉を紹介される。

 

外界としての困難、戦争や飢餓といったところ、あるいは宗教的な精神的な締め付け、といったところ、そういうところに神秘主義は萌芽し、花開く、ということであろうか。

 

私が昭和24年、1949年に初めて刊行されたこの書の復刊本を、アマゾンの古書で手に入れている意味、はたしてそれにはなにか意味があるのだろうか。

 

(一日しゃぶしゃぶの雑炊1杯だけ、という食生活、日々絶え間ない飢餓感との闘いであったろうと思います。そのことから今がいい、悪い、ということだけではなく、そういう時代であったのだ、という事を考えてみたいと思います)