誰にも頼まれていないのに何かを作ろうとする動機は、その人なりの”病”から始まっていて、作ることは”病”の治癒にも見える反面、”病”とより深く戯れることでもある。
6月7日 大野左紀子 TWITTER
TWITTERのリンクを張ったりすることができるのかもしれないが、やったことがないので、COPY & ペーストで。
私は多分小学校1年か2年の時に、「ああ、絵をうまく描きたい」と思ったことを覚えている。前にも書いた気がするが。
自分はもっとうまく描きたい、
と思ったのだった。
うーん、人との比較から入っているな。
対象はマンガ、というか実際は特撮をマンガで描いたものだな。
そのあたりは今もあまり変わらない。
縁があってここ東京で銅版画をやっている。まあ、会社員の傍らであるが、さすがに東京、いろいろなイベントや機会や展示が山のようにある。
そして描いている人とも近くに居ることができる。皆さん描くことが大好きであることが伝わる。こんなにたくさんの絵を描く人と近くにいたことはない。
私は全く正式な美術教育を受けたことがない、というか、受験校だったので中学1年までしか美術の授業はなかった。
仕方なく、美術部にいったら、部員がいなかった。
まあ、絵をかくというよりはマンガを描く、という方向ではあったが、ストーリーを追うだけの量を描くのはどうやら無理で、まあ、挿絵程度であった。
そう、挿絵的な説明が、いちばんしっくりくる。そのころ出会ったテニスンのアリスの挿絵はあとで銅版画であると知った。
この画面が版画でできる、というのは、木版画しか知らない身には新鮮であった。とにかく細い線が描きたかった。
なんというか、なぜ描きたいのか、という理由をあまり考えたことがない。例えば美大へいけばさまざまな技法を学ぶのであろう。そういうことを思索する機会は、今までなかった。
好きな絵は、明確だ。好きな画家も、明確だ。
冒頭の引用を読むと、私の中の「描きたい」という思いは、「宿痾」という言葉が結構ピッタリするような気がする。
あるいは「魂にあらかじめ刻まれたスティグマ」。
やはりなにか若干病気的なイメージになるが、それゆえに「つい描いてしまう」ということにつながりやすい。
そしてその理由は、あまり突き詰めたいとも、おもわないのだ。
(では、「書く」ということはどうか。私にとってあくまで「書く」は「描く」よりも優先度は低いようですが、そもそも表現、というおおくくりの中の単なる手段の違いでもある気がします。どのような表現形態でも、「私」を現出しようとしているわけですし)