夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自分の歌を歌いたい。

昨日は体重を測らず。祝日の中日、東京へ引っ越し準備がてら泊りで滞在したわけであるが、なんというか、外食三昧の2日でもあったのだ。

歩数はそれでも12000歩ほどあったのだが、感覚的には今の身体が必要とするカロリーをだいぶオーバーして摂取した気がするので、体重計に乗るのが怖い。

これはまあいわゆる勉強せずにテストを受けたときに結果を見たくない、という感覚に近いかもしれない。もちろんどこかで結果を見ければいけないのだが。

さて、この世に生まれた意味はあるのか、と問うてしまう人間とは因果なものだ。多分意味も理由もないのだが、ないというところにほのかな意味がある気もする。

だれかに「あなたのこの生は意味あるものだ」と言ってほしかったり、言ってくれる存在を必死で想定・設定しようとしたり。今のところ人気があるのは「自然の摂理」としての人間的な意識ではない意識に支配された「神」であったり、あるいは自身を客観的に見る第三者的自身であったり、あるいは「エゴ」であったりするようだ。

たぶんこころのそこでは「意味がない」とわかっている。だが一方であまりにそれを直截に凝視しつづけると、「精神が持たない」という予感もあったりする。だから「今生」といったり、「輪廻転生」「集合的無意識」といったり、「アカシヤ年代記」といったりする。

勿論「死後の世界」があるかどうかは「死なねばわからない」。完全にそうである。つまりは「永遠の解けるわけがない疑問」を抱いて生き続けることが、分かってはいても生を続けやすくなる構図である、という智慧があり、そのことをなかば強制的に知らしめる装置が「宗教」であったり、あるいは「宗教」の構図性が鼻について耐えられない向きに向けて「哲学」や「科学教」が自然発生的に「発明」されたのであろう。

そして「俗事」、「娑婆の出来事」に乗っかって忙殺され続けてみれば、あっというまに「生」は終わる。カゲロウの一日の生を人は優越感をもって憐れむだろうが、仮に数千年の生命を平均とする生命体が人の生をみるのなら、同じく儚く思うであろう。

一夜とて 神にしみれば 永遠と しることぞなき カゲロウの生

そんななかで、ではどのように過ごせばいいのか。比較は地獄とわかってはいるが、今よりも苛酷ないわば「隷属の生」を「世間」から押し付けられて抑圧を明確に自覚していた明治同年生まれの2人の歌人はそれぞれこう詠んだ。

劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ

与謝野晶子 大正11年9月 歌集「草の夢」巻頭歌

よき歌の一つを欲しくわがいのち長くもがなとこの頃ぞ祈る

片山廣子 歌集「野に住みて」昭和29年(1954年)75歳時刊

P.197  清水麻利子 片山廣子短歌研究 2019 株式会社KADOKAWA より孫引き

 

一人は生を生々しく歌に練り込み表現した。もう一人も同じく生々しい思いを、しかし生来自身に与えられた気質でもって表現した。一方より長生きした他方は、「人生の困難」に出合い、その表現方法の肌触りをすこし変えた気配もあるが、込められた熱量はお互いに明確に感じ合っていたのであろう。

なぜに歌うのか。答えはなくともいいのだが、「歌いたい」。

ここになにかヒントが隠れている気がする。

(私も歌いたいと思います。自身の歌を。。。)

 

 

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