夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

霊ということばの扱いにくさと、言葉の「ドクサ」。

こんまりさんの片づけ本で、近藤さんが行ったいろいろなひとの片づけで、思ったより全裸で暮らしているひとが多い、という記載があり、気になって調べたところ、約5%のひとがそうだ、ということがわかった。

これは勿論一人暮らしの人へのアンケートであるが、つまりはひとりだととことん気楽でとことん好きなようにする、ということがわかる事実だ。

だが、何十年と全裸になれてしまうと、ある日結婚して服を着なければならなくなると面倒に思うかもしれない。全裸以上に楽な服はないので、これはなかなかむつかしい問題だ。

先祖代々全裸に近い形で生活していた原住民に服を着るようにさせたのは、たぶん「羞恥」「社会性」を押し付けたからだろう。果たして彼らが快適だったのか。逆に都会のひとり暮らしであれば、自室では原住民に先祖返りできるわけだ。

さて、最近は鈴木大拙、禅から出発して、神秘学、そして神智学ときてシュタイナーの人智学に来ているが、シュタイナーの著作を読んでいて個人的にすこしとまどうのは「霊」という言葉だろう。

シュタイナー自身は霊感があるひとで、子供のころ遠くで亡くなった叔母をなぜかシュタイナーの居た駅で見かけて、その時刻に叔母がなくなったことを後で知る、というような体験をしており、そういう意味では実践、実感に沿って霊を語れる人であったろうところが強い。

私自身は霊感どころか、通常生活でも勘が悪く、例えば博才だって皆無である。いあ、逆博才とでもいおうか、負けそうだな、と思うと負けているし、なんならじゃんけんでも勝率が3割くらいである(個人の体感です)

なので、「霊を見た」というような体験はまったくない。心霊写真だってないのである。

ある仏教学者の方が、仏教雑誌が売れなくて困る、と編集者から相談を受けた際、その編集者曰く、「霊ということばを入れると売れることはわかっているが、入れたくない」と語ったそうである。

かようにこの国で「霊」という言葉にはさまざまな「ドクサ」が染みついている。

いわゆる漫画であれば、一大ブームとなった「うしろの百太郎」「恐怖新聞」、そして「エコエコアザラク」といった傑作漫画を思い出す。映画ではこれも古典的に、オーメンエクソシストといったあたりで、いわゆるカジュアルな世界では霊や死霊といったものはごく当たり前の「観念的存在」にはなっている。

だがそこはエンターテイメントの世界であるので、ではその霊が本当にいますか、というところは議論にはなりにくい。というか基本、居ないものとして消費するイメージ、つまりは怪獣や怪人の世界とも近いだろう。これは個人的な受け取りで多少ばらつきそうだが。

そういったカルチャー、あるいはサブカルチャーと言われるもののイメージの洪水を経たあとで、では「本当に霊はありますか」となると、これは聞こえ方によっては「あなた怪人信じますか」という質問に近くなる。

なので、いわゆるまじめに「霊」を語ろうとしても、その語、漢字の「霊」を見ただけでビミョーな感じが漂ってしまう。

似たような言葉では、我が国における「宗教」の語がある。かっこをつけたのはさすがに信じている人々がいらっしゃるからであるが、本日の新聞ではキリスト教信者が多いといわれる米国南部?でも宗教を信じないとする層が増えており、約3割だそうだ。

まあ、いまだ7割は宗教をもっているわけで、日本の感覚ではまだまだ多い、という感じではあるが。

だがかの「オーム真理教」事件を契機に、多くのいわゆる宗教語にドクサがからみついた。

そもそも「オーム」の語さえ神聖な出自をもつのであるが、この日本で「オーム」と聞けば聞いたひとはほぼすべからくオーム真理教を想起することになるだろう。

オーム真理教事件を契機に、「グル」「カルマ」といった語を不用意に使うことができない雰囲気もある。そもそも日本人にあまりなじみがないことばであるので、本来の「グル」は導師のことなのだが、なんとなく麻原個人を示す語であるかのごとく、私など感じてしまうのだ。

宗教、霊、とくれば「霊感商法」、壺に何千万を払う、というイメージしか湧いてこない人がいる。私がそうだ。

なので、霊という言葉を使いにくい、という前述の仏教雑誌編集者の感覚はよくわかるところである。

だが問題として、では「霊」の語が使えないとなると、「霊」的なことを表現するのにどうすればいいのか、ということにもなってくる。

西田幾多郎は「霊」という語をほぼ使わなかったという。だが先日の日記でも書いたとおり、西田の思想はプロティノスの一者や、鈴木大拙の思想とも近く、借りにドクサがなければ「霊」ということばが一番もしかしてわかりやすかったかもしれない。

ユングの「潜在的無意識」にしても、これは「人類の霊」とでもいう面もあるだろう。だがそれを「霊」というと、学問的に難しくなってくるのは、これは多分ホームズの作者、コナン・ドイルが「降霊術にこっていた」と残念そうにその経歴で記されているのを見てもわかるとおり、過去のどの時代でも、あるいはここ日本と多かれ少なかれ似たようなものがあったのではないだろうか。

(まあ、あの「霊」ではない、この「霊」と言ったような表現が出来ればいいのかもしれませんが、言葉のイメージは独り歩きしますからねえ。。。)

 

エロイカと論文ときらりとひかることの見つけかた。

学者先生特有の読みにくい文章の、難しい研究書を辛抱強く読んでいると、キラッと光る一行に出会えることがあります。(青池保子
少女漫画家「家」の履歴書 週刊文春・編 文藝春秋

青池保子といえば「エロイカ」である。あの華麗な世界は本を開いた瞬間飛び出す絵本のように湧き出てくる感があり大好きだ。

その青池さんのこの知見。

学者、というのはいわゆる論文を書くときには、新しい、今までにないことを世間に示す必要があるため、そのことに力が入るわけで、それを関係のない人が読むとその読者を想定していないがゆえに読みにくいものだ。

しかし、新しいものを今までの浩瀚な既存の事実を土壌として咲かせよう、という行為であれば、勢いその土壌への深い理解が基本であり、その理解に接するだけでも、特にその分野に興味があるが理解はない、という読者にはとても役立つであろう。

更に独特の「論文文体」があろうから(私はいままで卒論含めて書いたことありません。。卒論不要の大学だったのです。。)そこがまたハードルが高く、一読砂を噛んでいるようで、さっぱり頭に入ってこないことがある。

これが顕著なのは、論文ではないが、哲学の文であろうか。だが彼らは韜晦しようと思ってそう書いているわけでなく、頭の中に渦巻く思いを、それこそなんとか表現しようと呻吟して絞り出しているのだ。

読んでわからないと、「自分はこの本を読む能力ない」と思ってしまっていたが、上記視点を得てから、まあ、わかるところをわかろう、わからずともしかたない、という境地に少しだけなってきた。

そのことを思い出させてくれるのが、冒頭の青池先生の言葉である。少女漫画は私は大好きだが、素晴らしい物語の裏には、こうした素晴らしい努力が隠れていることが伝わることばだ。

(漫画は最高ですね!)

 

ウパニシャッドと自然なネガティブ感情への対応。

今朝の体重65.7kg、体脂肪率14.1%であった。筋量は53.1kg。これは近来ワーストかもしれない。筋量UPできない場合は減量が必要だ。幸い暑くなってきたので、「真夏にスーツダイエット」(真夏なのにスーツ上下着続けること)の季節ももうすぐだ。

さて、前の日記に、自然と心に沸き起こる感情を改めて「これはなんだ」「これはいいのか」といった第3者の視点を持ち込んでみる試みのことを書いた。

すこし気にしてみると、こういう自然感情はどちらかというと自分勝手でネガティブであることが多い。

・周りのしゃべり声がうるさい

・仕事中に電話の声が気になる

・声質が通り過ぎる声がうるさく感じる

会社で仕事をしているのであれば、当たり前に起こる場面で、観察するとこうした感想を自然ともっている。

だが、第3者的に見ると、「それらのことがらにネガティブに感じていることに対し、それくらいガマンせなあかんで!と突っ込んでよりネガティブになってゆく自分」もいるようだ。

こうした自然な感情は、考えるにコロナで在宅者が増えて、静かな環境でいることに慣れ、静かな環境と五月蠅い環境では前者の方が自然な感想であり(寂しい人もいるかもですが)、仕方がない、といえる。

そして例えば在宅であれば、外がうるさければ音楽掛けたりしてごまかせるが、会社であればそれも困難である、ということもあるだろう。

自然、「じりじりと我慢し続けている自分」が出来上がる。

だが、その我慢は必要だろうか。

 

いろいろな対策が考えられるだろう。

例えば在宅が多くなったことで増えたWEB会議用にヘッドホンを会社でも利用するようになった。これをただかけているだけでもすこしは遮音できる。

気になるのを我慢するのではなく、気になるのはふつうだと思う。

気になる自分は我慢がたりないわけではない。

 

と思ってみるような。

 

ブリハッド・アーラスヤカ・ウパニシャッド

中央公論社「世界の名著」 服部正明訳 第4章第4節から。

この身体内の洞窟に潜むアートマンを見出し、確認した人は、万物の創造者。ー彼は一切を作り出すから。世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。
まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、安泰であり、ブラフマンであります。

このウパニシャッド哲学の位置づけを高橋巌さんはこうおっしゃっている。

ウパニシャッド、サンチャ哲学およびヨーガは、神秘学の三大分野である宇宙論、人間論および霊的認識の方法に相応しているといえるから(後略)

神秘学序説 イザラ書房 P.84

この「三大分野」は人間を「肉体、(表面的な)精神、魂的な本質」の3つに分ける考え方とも照応しているだろう。

そしてウパニシャッドは、この「各人の心の奥底にある本質的なもの」こそが全体であり、「この世」をも含む一である、という転換を示しているのだが、最近見ている西洋、東洋の考えかたの奥にはこの考えの類型がいろいろなところで見られるように感じている。

そしてその考えを、キリスト教は異端、と認定した。今のキリスト教はどうなのだろうか。

(いやなものは嫌と感じていいのですね。そして感じている自分が残念な人間だ、という2重の呪いに気をつける。日々の暮らしで気を付けるべきことかもしれませんね。心の平安のため)

 

会社員の服装についてと、感情奴隷的な働き方について。

制服、というものは、自らが選んでいない服を強制されて数時間着続けさせられることを示す。

という意味では物理的に服、というよりは「強制的に着たくもない服を着せられること」という事象といってもいいだろう。

逆に制服を着た従業員を見たユーザーは、「この人間はいやいやこの制服を着せられている=従業員に強制力を働かせることができる会社である」と推察し、得られるサービスが一定の強制的(奴隷隷属的要素といってもいいだろう)作用を経て届けられる、奴隷的サービスは「お値段以上」である可能性も高い、という直感や思惑をもち、

いわばギリシャ時代の「奴隷を使役する」市民、のような感覚でもってそれを「満足感」と認識する。

ここ日本で、「ダサすぎる」制服がいまだ多い理由をそのように理解している(個人の理解です)。

なので、制服をスマートに着こなしている姿には憧れる。NHK映像の世紀を見ていて、パリエッフェル塔を作っている作業員が、なんとスーツを着て作業しているのを見て、感銘を受けた。

もちろん、たぶん思い入れが過ぎるのだろう。

多分イタリアあたりの移民であるかもしれない彼らは、そもそもそういうスーツスタイルの普段着しかもっていないのかもしれない。

だが、ゴッドファーザーのサーガを見た後にあの映像をみれば、制御できない自由なる魂を持った個人である、というようなイメージがふつふつと湧きてくるし、たぶんそういう気概を持った人物が働いていたとも思うのだ。

制服はダサい。

営業車はダサい。

ダサくない制服や営業車を使っている会社はチャラい。

 

そんな認識がここ日本ではあるだろう。それを皮膚感覚でお互い感じるので、労働者は敢えてダサい制服をいやいやながらどこかで諦めて着ている。

最近はスーツ仕様の作業着も出てきた。これはいわゆる3K(いまは使うのかな?)な職場で働き手が来ないので、「ここではスーツのような作業着を認めますよ」というメッセージを出すことで、少なくとも同業他社よりは志望者を多く集めよう、というインセンティブが入っている(個人的感想です)。

ねがわくば、そういうところで隷属性を確認するのではないような、働き方と認識の中で、過ごしたい、という思いもあるが、

それには相当の時間がかかるだろう。

 

 

あ、冒頭の時計、本来「ビジネスでは使ってはいけない時計」ですが、小さな反抗として使用しています(笑)

(THIS IS 島国感覚、ですね。。。)

 

 

時間と空間とグルテンフリーと「大リーグ養成ギブス」。

今朝の体重65.7kg、体脂肪率10.7%。昨日サイゼリヤでチキンとグリンピースにオリーブオイルをかけまくったのが影響しているかもしれない。

体重を絞り気味にすると、基本いつも空腹感があるのだが、昨日はそうでもなかった。やはりすこし飽食気味なのであろうか。あるいはグルテン効果だろうか。

グルテンフリーという概念をジョコビッチ氏の本で知って実行して見て以来、体調はなんだかいい感じがする。

体重が一番増える要素は飲み会である。私は「食べ上戸」を標榜しており、とにかく飲み会では絶え間なく食べまくっているということでたまに驚かれる。自身では全く意識していないのだが。

星飛雄馬に大リーグ養成ギブスというものがある。このネーミングが秀逸で、なるほどこの鍛えは大リーグの為か、と着用者は折に触れ意識するだろう。実際のギブス効果に加え、脳みそへの効果もあなどれないものがあるだろう。

グルテンフリー、は実際のギブスではないが、にたような仕組みである。あることをある目標のためにやる、という仕組みだからだ。

ジョコビッチグルテンフリーでテニス世界王者に。

その図式を見れば、まさか自身はテニス王者にはならないが、自身にとっての「脳内世界王者」になるためにはこの「グルテンフリー」という「脳内養成ギブス」が効果的ですよ、と少なくとも私の単純脳には作用した。

なので、「グルテンフリー」していると、「自分は努力している」という感覚を享受できる。この感覚享受がけっこう気持ちよくて癖になるようだ。

いわゆる「幸福ホルモン」に近いものかもしれない。健康を求める行為の楽しさと仕組みは、このあたりにあるのだろう。

健康貯金、という言葉もあるし。

さて、ユングのいう深層心理については、きちんと学んだことがない(ないんかい!!)が、どちらかというとアカシア年代記というか、人類の今までの記憶がすべてプールされたたゆたう海、というイメージでいる。

多分正式にはそういうことではないのだろうが、ユングの傾向や生き様を見ていると、案外学術的にはそこまで言うとゲテモノ扱いされてしまうが、本音はそうだったろうと理解している。

ユングは日本では学術的なもの(河合さんのご尽力が大きいのでしょうが)と感じられるが、海外では結構ゲテモノと言われている、ときいて奇異に思ったこともある。

そこではつまり、個人の意識は、大きな全体の意識(それはすべてのことまもしれない)といっしょであえうか、あるいは一時この肉体に入ってとどまっているが死ねばまた戻る、というような感覚を生む。

これが「輪廻転生」の意識に近いのだろうが、西洋ではたぶん伝統的に輪廻転生は意識的に採用されてこなかったのだろう。

これも私の個人的な感覚だが、キリスト教では死んだのち個人は土葬で埋葬され、最後の審判時には棺桶よりその肉体でよみがえり、再生する、というのがスタンダードなのではあるまいか(これはタロットカードの図でのイメージがつよいです)。

そうなると、個人の魂はそのままとなる。

最近のAIにより、個人のライフログや(表面的な)キャラクターは膨大なメモリーにより、他の人間には「故人と同じレベル」と感じる程度まで再現した疑似ドッペルゲンガーが早晩実現するであろう。

だがお待ちください、その「疑似ドッペルゲンガー」は自分と似てはいるが、別に自分とつながってはいないし(勿論目で見たり記憶したものが日々アップデートされたりはするだろうが)、魂としてのつながりは感じないはずだ。

それはあたかも見た目まったくそっくりな双子で、魂は別々、という存在と変わらない。特別な機械ペットという感じはするだろうが、それ以上にはならないだろう。

双子同士は特別な共感力がある、というような話も聞くが。

深層心理が自然と全経験を再びプールするものであれば、わざわざデジタル的に記憶をプールしなくてもいい気がする。のだが、まあ、深層心理というのは生きているうちには人間には有無があかされないであろうから、存在も「科学的には」証明できないだろう。似たようなことはゲノムやDNAで言おうとしているのかもしれないが(科学教にて)。

いろいろ考えてきた「ミクロコスモスとマクロコスモス」=内面と外界、であるが、これと似た対峙形態として「時間と空間」というものがあるのかもしれない、ということをこの文章から感じた。いままでは時間と空間を同列に考えたことはなかったので、新鮮であったりのしたので、ここで引用しておく。

大自然と人間とを同じコスモスとして、互いに照応しあったものとして考える考え方は、ゲーテやドイツ浪漫主義の中にも顕著に現れている。それは内なるものと外なるもの、時間と空間とを統一のものとして体現することを目ざしている。
ヨーロッパの闇と光 高橋巌 イザラ書房 昭和52年 P.43

時間と空間とは実在と感覚とにわかれ、本来別なものというイメージがある。これが並び立つ、というのはしかしありうるような感じもする。

この感覚は、もう少し追及していきたい気がする。

(時間も空間も、把握しにくいですね。時間とは存在するのではなく単なる考え方のような気もするし、空間も青空で天空は限界がある感じがしますが、そもそも毎日「無限」を見ているわけですから。。)

 

 

 

 

 

 

 

見るということ。

昨日朝の体重は66.1kgであった。体脂肪は5%とでたが、一昨日は体重65.7kgで体脂肪率は13%くらいあった。

一体この差異はなんだ、ということであるが、トレーニング直後は高いが、2日くらいすると低くなる感じがある。また当たり前かもしれないが、多めにあるいたり、公園で懸垂などをおこなうと、低くでるようだ。

タニタさんが、脂肪OR筋肉認定を、筋肉のこり?で行っているのだろうか。2日くらいでこれだけかわると、まあ、話半分、中取って平均でいいのかな、とは少なくとも思っている。

見る、ということについて考えている。

単純に、視覚細胞が目のなかにあり、外界からの映像を脳内に取り込んでいる、というイメージでやってきた。

今の時代はほとんどがこのようなものだろう。教科書で画像と目のレンズと焦点があう、合わない、などという図などを見ると、ああ、そういうことか、と思うのである。

だが、そこでの理解は、ある意味とても平面的なものだ。即物的、といってもいい。すべて世界は科学的にこのようなアプローチで理解できているし、それ以外にはない。それが世界だ。

これが「生きる」ということを腑分けした結果である、というイメージを、学校で学ぶ、という「正しい」しぐさのなかで日々実感し、その実感を育て、確認してきた。

だが、最近考えているのは、即物的にはそうである、そうであることは明確なのだが、果たしてそれで「わかった気がしてい」ていいのか、ということである。

見たものは見られるまで存在しない、という少し不思議な言い方がある。

普通であれば、存在しているが見たことがない、ということをただ言っているだけ、となるのだが、

ちょっとそういうことではないことを言おうとしている。

「見る」ことで、世界が瞬間瞬間に生まれている、というような感覚だ。

これは「事実」ということばとは親和性が低い。感じ方、というようなものに近いが、ただものごとをそう感じた、というのとも少し違う。

表現がむつかしいが、そういう在り方でしか世界はあり得ない、というような感覚に近いだろうか。生は一つの夢のようなもの、在るようで無いようで、という世界とつながるものかもしれない。

では「見るまでなかったのか」「見られた瞬間の一瞬前にいきなり存在開始したんか」、といった感じで否定したくなるが、

まあ、別に否定してもいいのだ。

そこは自由。

ただ、「私が考えているだけ」なのだから。

 

物質を手でつかむ。「物が存在する」のを実感し、われは物体のなかの魂、あるいは精神だ、と感じる瞬間である。

精神、これまた難しい言葉だ。

ただ、考えている脊髄反射的な感覚に近いものとは別に、「魂」といいたくなるものを自身の中に抱えている感覚もある。

個性、や人格、といったもので、魂とまでいうのは「そうであってほしい」という希望があるからだけなのかもしれないが。

 

そんな堂々巡りと近い感覚で、「見る」を考えると、単に鏡像をレンズが視覚の中に残している、というのとは別の考え方が、あるいはあるのかもしれない、という風に感じている。

(見る、という行為は、もちろん全身の5感を使って感じている行為のことなんですよね、、考えてみれば。。ちょっと自分っでもなにを書いているかわからなくなってますが(苦笑))

 

心は自由。自分は自由であることを心から理解していなかった。だが、そうなのだ

徹頭徹尾、私は自由なのだ。本質的に、自由に考えることが出来るし、無理せず自然に、そうなのだ。

だが時に、自由とはラクチンであることと同意ではない。

そこもわかっている。

でも「自由に」わかっていれば、ラクチンでないが、でも自由であることは「心がラクチン」であるのである。

池田晶子さんが、もし自分の子供をもったら伝えたいこととしておっしゃっていたこと。

「思い込みに囚われず、完全自由でありなさい」

そういうことをおっしゃっていた。おっしゃっていた本を今は参照していないのだが、そういった意味のことをおっしゃり、

私は池田さんの子供ではないが読者であり、池田教の教祖には決してならぬ、とおっしゃっていた池田さんの心を私なりに理解しているつもりのいわば「心の弟子」であるので、

池田さんからのメッセージとして記憶している。

だが、その言葉を聞いて(読んで)、すぐに思い込みから完全自由になったわけではない。

今も勿論囚われているし、将来も、基本「あたらしいことには囚われる」。

だが、現実や、どうにもならない、と思う心や諦めや冷笑や常識、といった、いわば「エゴの罠」が存在することはうすらぼんやりとではあるが、感じている。

敵の存在をしっていることは、私的には結構進歩なのだ。

この世は3段階で進歩する、という。1歩目は隷属。2歩目は支配。3歩目こそ愛による生。動物的社会は、天与の、という意味ではたまたまの「天才」としての、親ガチャならぬ「自分ガチャ」による身体や頭脳や境遇という条件が良かったものが、「たまたま」群れを「支配」する。

だが「ボス」は基本おとろえると「代替わらされる」。

そうなるとボスが本当に「幸せ」なのかは微妙であろう。

ボス猿よりも、メス猿社会の頂点である「女帝」こそが、まあまあ長期で幸せかもしれない。北条政子のように。

そこにあるのは、奴隷とご主人さま、だ、あのソクラテスプラトンを生んだギリシャ社会にしても、都市どおしのつばぜり合いがあの「緊張した精神」を生み出し、バルバロイ、すなわち市民ギリシャ人以外を奴隷として使役することで初めて成立したものだ。

いまのギリシャ人の中になぜソクラテスがいない(いや、いらっしゃるのかもしれませんが)かというと、これは人種というよりは、文化や政治が大きくからんでいた、というのが私の現在の理解である。

だが、「奴隷」はどこまでも不幸である。奴隷がなくなって、支配者と被支配者を生んだ、宗教による統治の時代も、奴隷視点に立って見ればこれは絶大な進歩である。

だが宗教による支配は、その頂点に立つものが身を維持したい、という思いをも生んだ。権勢、権力、財力、といった言葉で語られる「身」である。そこはいかんともしがたい。勿論そうではない「君主」もいたであろう。だが世襲、わが子、家、といった要素を考えると、王制、君主制、領主制を見れば感じるのは、「保身」の一言だ。

多くの変化、科学の変化や世界大戦、WEBによる世界の統一(これは既にそのステージにいるだろう、実感はないが、後世からはたぶんそうみられる)といったステップを経て、いまは宗教も奴隷制もない、まだ戦争はあるが、そういう時代にまがりなりにも突入した。

そこでは宗教は基本、必須ではない。個人が、もしそうしたければ選び取るものとなった。そしてそうなったことを私はいいことだと思う。

日本という国は宗教のしばりが緩やかだとおもう。すくなくとも私が見聞きする海外と比べて。

これはもしかすると「大乗仏教」が効果をあらわしているのかもしれないと思う。つまりは「山川草木悉皆成仏」の世界観だ。

そこでは山も、川も、草も、木も、すべて仏になる途上、「菩薩」状態である。生き物、とみなされないもののなかにも「仏性」を見て、感じるのである。草木がそうであれば、動物もそうであろう。動物の1種である人間もそう。

つまり私もあなたも世界もすべてが「成仏」する。つまり今は菩薩である。

この思想にどっぷりつかっていなくとも、積極的に採用していなくとも、なんとなくそういうようなことを聞いたかもね、というのが「日本社会」だ。

これである。

このぼんやりした、なんとなく「先は成仏」観、これがちょっといいのではにだろうか、と思っている。

これは例えば中世キリスト教時代にいって唱えれば即「異端」で「下手すりゃ火あぶり」である。自身のなかに仏となる要素がある、と思うことこそ、中世でいう「異端=人間3分割説」の「人間の中に神的要素がある」と親和性が高いからだ

それがなんとなくうすらぼんやりとまあ、そういう考えもあるわなあ、といった緩さでただ知られている。

この緩さもまたいい。別に強制ではないからだ。

奴隷、支配ときて第3段階は愛。

愛というとなんだかこっぱずかしい文字であるが別に、この腕時計への愛、でもいいのだ(笑)。

そういう意味では、世界は一歩すすんで二歩下がってはいるが(戦争などもまだまだあるが)、すこしずつは、進んでいる、と思っている。

(そう思いたい、という面もあるかもですが。。)