新潮文庫で話題になっているというガルシア・マルケスの「百年の孤独」を注文した。
読み通せる自信は全くない。前に単行本を図書館で借りたのだが、1ページで挫折。
図書館だと延長入れて3週間なので、毎日読みまくってやっと、というところだろう。
文庫を新刊で買うのは久し振り。ここ神保町にいると、古本であるやろ、と思ってしまって新刊を買えないし、出来るだけ本は増やさないように(といっても月に3-4冊買っているが)と一応は思っているのだ。
だが、この本の注文に至った理由の一つは、この表紙がかっこよかったから、ということがある。いわゆるジャケット買いに近いものもある。
私の版画友達で、本の装丁というか、本に作品が使用されたかたが複数いるが、やはり本の装丁、というものは魅力がある。
注文すると、なんだかわからない値引き(なにかなあ???)が300円あり、POINTは102円あったので、1000円以下で手に入る予定。
本当は文庫が出ると単行本が安くなるので、それを狙おうとも思っていたが、まあいつもの衝動買いですね。。。
図書館ではなく、所持していれば、読む時間で焦ることはない。結局なかなか読めずに積読、になるのだが、”いつか読むかもしれない”と思って買うのは大好きなのだ。。
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ジンメルは女性の媚態を分析したあるエッセーのなかで、女性の本質とは愛の証しを求める男性の側からの執拗な申し出に対し、ウイともノンとも明確な回答を与えず、問うてくる主体を未決定な状態に置いてしまうことだと指摘している。
P.51 人・中年に至る 四方田犬彦
私は人と恋愛の話をすることがほとんどない。あまりに心のなかが赤裸々にさらけだされる話題だ、と思うからだ。
なんというか、心が裸になる、という気がする。
これは女性の場合はもう少し”情報共有”という雰囲気があるように思う。男性の場合はどうしても自分以外はすべてライバルになる、というリスクがある気がするのだ。
まあ、私自身の心の未成熟さだ、と思ってはいるのだが。。
頂き女子りりちゃん、のマニュアルを読んだ。
正直な感想として、”私は本質的にカモになるだろう”という感覚を持った。
金があったら正真正銘の”ギバーおぢ”認定されるだろう。
まったく耐えられる自信がない。
。。。これはやられるな・・・
というのが素直な感想だ。
頼られる快感。いままで誰にも頼られた経験がなければ更に。
嘘をみぬこう、と思っていても、嘘であると隙をみせるような行為は懇切丁寧にさけるべく解説されている。
このマニュアルに沿ってやられれば、まったく見抜ける自信はない、いやむしろ騙され通される自信しかない。
まさに自身を”頂かれおぢ”認定したいところだ。
まあ、金はないが。。。
「葉隠」に「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候」 という部があるという。
以下冒頭でも引用した四方田さんの「人・中年に至る」のP.52.から引く。
忍ぶ恋はどこまでも告白されず、したがって周囲どころか、恋愛の相手にさえ知られないことを理想としている。そこでは恋情はかぎりなく無化され、逆にその無化を通して、公言され公認された恋愛とは比べものにならない強烈な情熱を携えるようになる。これは逆理に他ならない。だが山本常朝は、もし世に恋愛というものが成立するとすれば、それはこの壮絶な逆理をみずから演じて生きることだと説いている。
葉隠、は一読”やせがまん”の書と思うかもしれないが、その実非常に貪欲な欲望を語った本であると思う。
上記の恋愛は、”成就”することはないが、”とてつもなく永続”するだろう。下手をすると一生その愛に沿って人生を歩むことさえ出来るかもしれない。
そして思う。
そういう”恋を秘めた生”を生きる人は、常に希望を持つことができるだろう。
それは”成就”を希望していないようでしている、がなにもしないことで永続させる、という、
まがりくねった構図をしている。
その結果の”生の充実”である。
その人は、凛、としてさえいるかもしれない。
イデアを胸に抱く、生涯のロマンチストに、なっちゃっているかもしれない。
そんな生は、実は結構魅力的だ。
だが普通は求めない。成就、を求めて行動するか、あきらめるものだろう。
やはり壮大なるやせ我慢、ではあるのだが、ちょっと深すぎるやせ我慢、であるだろう。
だがそのやせ我慢と、頂き女子に頂かれるおじの心理は、
それほどめちゃくちゃ遠くはないような気がするのは、
気のせい、だろうか。。
(頂かれて、だまされたと知っても怒っていない人も、もしかしているかもな、とさえ思います。。。←これが”頂かれ”要素(´;ω;`))