Amazonプライムで"アントニオ猪木を探して"を見た。
私はスポーツはほぼプロレスしか見ない。べつにその事で他人に意見をすることはないし、まして意見を聞くことはない。
八百長だ、と感じるひとも居よう。別にいい。私は好きだ。この一言だけである。
猪木は難しい題材だ。まずは全盛期を見ていない。素直で人を信じすぎるし、突き抜けるが故に様々な評価を受ける。
プロレスファンには全日派と新日派がある。なぜか私の周りは全日派が多い。プロレスファンだと聞いて誰が好きかと尋ねる。全日だ、と聞くと、外国の同胞に出会ったような笑みが我が頬に浮かぶだろう。もちろん嬉しい、だがそこから猪木のことを語り合う事は少ないだろう。
映画では若い時の猪木の姿も見ることができる。新日本立ち上げのカールゴッチと対峙するポスターには痺れた。鍛え抜かれた両者の逆三角形の肉体。リアルタイムで見ていたならこれからはずっと猪木についてゆく、と思ったに違いない。で、ゴッチの大ファンにもなる。
あの時代、あの肉体、あのプロポーション。これは唯一無二の存在であったろう。興行がある、巡業があり、経営がある。わかっている。その事でプロレスに何かを思うのなら、その人は私にとってのプロレスファンではない。別にその人に意見をすることは無いが。
私にとってのヒーローとはそのようなものだ。存在する、動いている、素晴らしい、以上である。
猪木は孤独である。孤高である。理解されていたとは思えない。だが崇拝してついてゆく人たちは居ただろう。
映画は正直に言って微妙なところもあった。文句は無い。猪木追悼の映画なのだ。世間に猪木を提示するにはこういうことになるだろう。だが選ばれた題材はいい。ホーガン、ブロディ、ベイダー、ドンフライ。そしてアリ。
カストロとの映像は良かった。初見であった。その時代を象徴する人物が邂逅した。そんな絵を見た。
世代が違う猪木を私はぶつかって越えるべき巨大な山であるように感じていただろう。チンタも山田圭一も武藤も蝶野も。煙たくもあったろう。だがそこにある巨大な煙たさこそが、私にとっての猪木寛至、なのである。
(その死をうまく受け入れられていませんでしたが、良い機会を与えてくれる映画であったとありがたく感じています)