あたりまえなことばかり
p.150 池田晶子
”人は、自分の人生に密着しすぎている、そんなふうに感じることがある。別の言い方をすれば、人は人生を生きるのは自分であると思い込んでいる。”
同、p.149
”物語を生きているのだというこの自覚は、不可避であることによって運命であったようにも思われる人生の様々な出来事(アクシデント)について、逃避するのではなく対決するのでもない、微妙な距離感を与えてくれる。
(中略)
なるほど、それを生きているのはやはり自分でしかないけれども、生きられている物語を自覚的に生きることで、人生は生成する物語それ自身と化す。悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶ、感情は物語を読むことに似てくるだろう。しかし、悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶとは、じつは人生の本来的なありようそのものではなかったろうか。”
同 p.150-151
いささか長い引用となった。
”私”のこの”人生”のこの”哀しみ”のような感情はなんだろうか、と考えることがあった。
””が多すぎる、みんなはっきりされていない、していない。
再び引用。
”私の中に心があるのではない、心の中に私があるのだとは、ユングも行き着いた壮大な逆説である。”
同、p.151
人の心、自分の心。もとは一つであった同じ心が仮に自分という条件で一部となり物語を生きている。他人は私である。
”死ねば”それは世界霊魂に渾然として戻るのであろうか。いや、こうしてこの”自分の中”にある状態でそうなのだろうか。
様々な仮説。
池田さんはいう。”苦しみは恩寵である。”
”苦しみ、苦しいというこの明らかな感情ですら、自分にとっては不可解な訪れなのだと知ることで、それがよってきたる遙かな方へと解き放たれてゆくといったことだ。そのことによって、事実上の人生が何か変わるわけでもないかもしれない。しかし人は、物語を楽しむように苦しみを楽しむ、そんなふうに自分の人生を生き始めるのではないだろうか。”
同、p.153
”古代の人々にとって、感情の自律性とは、それ自体で神々の訪れだったようである。”
同、p.147
”癒され”ようとして、池田さんの森に分け入ったら、癒しの言葉を通して広い世界に出た。そんな気がする。
物語としての生、この感覚はいまだ100%しっくりきてはいないが、確かにある。
しっくり来ていないところが、多分人生の初期設定の部分であろう。池田さんはそこを本来越えたスペック。僕はそこでうろうろするスペック。
だが”池田ソフト”でその視点をインストール中、といったところであろうか。
コンピュータの仕組みは、しらずしらず人生の形式を模倣しているものなのかもしれない。
それは当たり前のようにも感じる。
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