夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

借家根性。

年末お約束といえる大掃除を実施。風呂の水垢とりが結構規則的であり、作業をしながらいろいろと考えた。

思えば社宅暮らしのときは家が自分の所有ではないので、基本的に愛情を持って掃除できなかった。なぜ掃除をしなければならないか。

こういう思いで借家暮しの人が借家を大切にしないことを、借家根性、あるいは借家人根性というとどこかで読んで、ははあ、これは自分だけではないようだな、と思ったものだ。

今は社宅取り壊しの機会に移り住んだ築18年の中古住宅暮しであるが、少なくとも自身(家族)の所有物、なわけである。昨年はじめての大掃除の時感じたが、少し掃除に力がこもるではないか。無論たいしたことはない。然し自分の所有物を綺麗にしている感がどうもあるようなのだ。

我ながら現金なものだとおかしくなった。同時にこれが家を貸している人が借家人に感じる不満と不安なのだとわかった。人のものをだれが喜んで。

しかし考えてみると、これは仕事、というものと同じ構図なのだ。

自分の仕事として深く納得できていない仕事、身すぎ世すぎ、食べるために生きる僕のためのしごと。

これでは本質的な力がこもらない。自分の仕事と納得したときに人は力を出すのだろう。

しかし、きちんとしたひとは多分借家でもきちんと掃除をする。そんな人は"借家的”なしごとであっても、きちんとこなすのであろう。そしてそれを続けているうちに、慣れによる心地よさ=安定、が発現し、人はそれに身を任せることもある。

それが悪いわけではない。だが、自覚的であり続けるのは困難だ。そこがすこし問題であるような、気がしている。