夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ブランド。

”影響力の武器” ロバート・B・チャルディーニ著、を読んだ。

最近は見た目からターゲットから外れたのであろうが、良く駅前とかでアンケートに出会う。アンケートならセールスではないと一瞬思い、又頼んでくる人々が妙に学生のようで、これは一つ協力してあげなければいかん、という気持ちや、なんやかやが出て、はあ、まあ、などと答えると大体が一瞬得しそうで、実は全く得をしないわけのわからんクーポン券等の購入を強要されて、うんといっても、いやと言っても、気分が悪くなるのである。
 
又、地元の神戸では、金髪の青年が自転車で三ノ宮のアーケードとか、大丸そばのペコちゃんとかかねてつの前を巡航していて、英語を勉強したくないか、と言われて、ついてゆくとモルモン教の布教なのである。自分はひっかかったが、弟もひっかかった。その事実にやはり兄弟とは似ているものだ、と妙になんだか納得した記憶が懐かしい。

そんなこんなが、人間の心理というか、本能というか、無意識の反応を織り込んだ手の込んだ販売テクニックであることを、この本は学術的にかつ興味深く示す。

友人に誘われて、友人宅で料理を振舞われ、料理した機材購入を勧めるアムウェイの商法は、別に違法ではなかろう。しかし、友人、自宅、振舞われたらお返し、という強制力と人間心理を巧妙に織り込んでいる事実はある。それで友人との関係で購入するのは個人の自由であろう。実際に善いものであればなおさらだ。しかし、そういう感じで、網に絡め取られる感覚を、個人的には愉しいとは感じない。それが一つの判断基準であろう。

ブランド、と聞いて真っ先に思い出すのが、ルイ・ヴィトン。関西人にとって、電車の中で派手なネーチャンがなんとなく”これみよがしに”品なく持っている、という印象が強く、ブランドとしての印象は良くない。そうした記号を知って、敢えてそうした記号を身につけたい、という内面がわかりやすく示されるもの。そういう印層が強烈だ。

”要はヤンキーのもちものやろ”

一言で言えばそうなる。自分がヤンキー的生活をしていれば、だが、どちらかというとオタク系であった僕は、ヴィトンは人生的には避けてきた。

しかし、親戚に海外土産でキーケースを貰った。安くは無いもののはずで、貰った以上は使わねばならない、ということになる。でなければせっかくくれたのに悪い。

ということで使っている。
と、不思議なもので、なんとなく嫌悪感が薄れてきた。モノとしてはわるくないやんか。

考えたら、モノがいいからブランドとしてのパワーがあるわけで。
となると、不思議なもので、品のいい人も、あー、持って品があるようにもてなくはないのか。という風に感じることもたまにでてきた。

相変わらず、ヤクザが持ってます、的なのを見るといやだが。

しかし、なんとなく内面が変わってきたように感じる。


これは、スポーツカーの購入層が二つに分かれる、というのと似ている。購入層は車体価格以下の年収の層と、車体価格の何倍もの年収の層にきれいに2分されるという。要はヤンキーと金持ち、が買うというのであろう。メーカとしては、ブランドとしてのイメージ保持から、”ヤンキー"層へ別に買ってくれなくていい、あるいは買わないでほしい、という思いを持つことが多いようだ。
ま、走りがすきで購入、という感想があればいいようだが。

車の購入と、時計の購入には同じような心理が働くというが、ブランドも同じであろう。

なぜ、ルイ・ヴィトンのことを述べるかというと、その広告が秀逸であると思うからである。ブランドはそのイメージの付加のため、雑誌等の広告にも力を入れる。個人的には、パテック・フィリップの親が子に伝える家宝のようなものですよ、というメッセージが、陳腐ではあるが、自分が父親で或る所為か気になる。あと、はRolex.特段素晴らしい広告とは思わないが、愚直に商品のよさをシンプルに伝える画面には自信と風格を感じないわけではない。

そしてルイ・ヴィトン。読売新聞の新聞広告の賞を取った、フランシス・コッポラと娘のソフィア・コッポラの写真による広告。これが大変気になった。

アルゼンチン・ブエノスアイレスの低木のブッシュのそばの沼地のようなところに、脂ぎって精力がありそうなコッポラ父がシナリオ(多分)を手に娘に語りかける。屋外ではあるが、品のいいテーブルと椅子。足元には寝そべって聞く娘の横顔。

一枚で様々なメッセージを発している。ソフィアの横顔がいわゆる”貴族的な”顔である。まあ、欧米人としては普通であろうが。

意思の強そうな、きかんきそうな、若いときは無茶するわよ、といった目線である。父親はその目線をブラウンのサングラスで受け止める。

そして、足元にはヴィトンのトートバック、というわけである。

こういう親子関係にはヴィトンがありまっせ、ということであろう。

うまい。ヴィトンの持つ、ヤンキー御用達、というイメージ修正に大変効果がある、と感じ入った。それ以外にも、アポロの乗組員を3人(内ひとりは女性)登場させたり、夜中のホテルのキース・ロジャースを採用したり。

多分短い映画を取るくらいの費用は十分かかっているであろうが、そうした著名人のイメージと、ブランドのイメージを同一化させようという意図が、個人的にはちょっとあからさまではあるが、それほど不快感を起こさせない程度に上手くまとめられている。

で、しらずしらず、自身の中の嫌悪感が薄らいでいることを、発見するのである。

知らずに乗せられるのはいやだが、わかっていれば、”まあ、おみごと”という感じにはなる。

影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか

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