夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

2つの神話の、追悼。

池田晶子さんの著書に引用されていたことをきっかけに、ユングの自伝を図書館で借りた。みすず書房の古い本で、近くの図書館にはなく、取り寄せてもらう。ふだんは書庫にあることを示す緑色のシールが貼ってある。
借用期間を2回延長したら、一度は返さなくてはならない。オリーブ色のその本は、やはり古いだけに所々破れていたりする。
次回の借用の為、予約票と一緒に返却した。一度所蔵する図書館に帰り、またやってくるのだ。

いったん返してから図書館内をうろうろして、予約してあった本を受け取った。この6月2日から予約できる本が2冊から6冊へ増え、インターネットで予約もできるようになった。手軽になった。安易に何でも借りることになるかもしれないが。
予約した数冊の本の中に、先ほど返却した本とそっくりな本が混じっていた。同じような色で、同じような古ぼけ振りだ。

あれ、っと思ったが、違う本だった。洲之内徹セザンヌの塗り残し”。最近の本はビニールカバーで保護されているが、前述のユングやこの本は1970年代後半から80年代初めの発行である。紙のカバーをはずして、ビニールカバーは無い。だから地が出ており、破れるのだ。しかしこの、いかにも年代を感じさせる本を、手に持って読むのは悪くない。いかにも本を読んでいる、という感じがする。

洲之内氏のこの本は、文庫にもなっておらず、古本でもなかなか出てこない。最近6冊セットで復刊されたようだが、全部で21000円はちょっと手が出ない。すでに文庫は2冊(3冊かもしれない)、ハードカバー1冊を持っているのだ。思いついて蔵書を検索すると、1冊だけ残っているようだ。それがこの本。1983年の二刷。

前述のユングを読んで、人が自らの中に持つ、個別の神話、ということを考えた。”今になっても、私はお話を物語るー神話として話すー以上のことは出来ない”(ユング自伝2 P.137 死後の生命)。
また洲之内さんの本では、こんな言葉にぶつかる。
”見たいものを見るためには、時間と手間をかけるのが当たり前なのだ。”(セザンヌの塗り残し p.61 前線停滞)

僕の中にも、自然発生的に生じた神話的世界がいつしか出来ていた。そこの登場人物は、例えばデフォルメされたいわば人間の原型のような人物たちである。ギリシャ神話の神々のように、人間的ではあるが、超越的でもある。今までに会った(現実のみならず文章やお話も含む)ことのある人間のなかの、いうならば上澄み、あるいはコア(核)のようなもの。そんな感じであろうか。

そんな個人的な無意識下の世界に、いつしか2人の戦士が存在していた。気がついたらいた。ここではいて欲しい、と(無意識でも)願えばその時から存在開始するのだ。

最近になって、この2人に変化が生じた。正しくは現世でのその供給のきっかけになった方々を失ったのである。

2人は期せずして非常に似た存在である。発生のイメージ元は同じ梶原一騎、という稀代のストーリーテラーであり、神話製造者であるかもしれない。その一人は豹頭を持った巨漢の神話的存在。もう一人はこれも虎頭の鍛えぬいた現代の戦士である。
ひとりめである栗本薫氏の創作した物語の主人公、豹頭の戦士グインとの出会いは、物語の中の一方の主人公である双子と同い年の時であるから、相当昔からの付き合いだ。
以来僕の中では、本物の豹の頭に、哲学的な英知を秘めた文字通り神々の独りのようなもの、として存在してきた。
もう一方の戦士、虎の仮面、タイガーマスクは、正確には何人かの、別の人間達が引き継ぐものである。始めは物語の中の戦士。これは豹頭のグインとの出会いよりも早い、僕がプロレス界を文字通り神々の争いとしてしか感じられない幼児のころの出会いであった。エニグマ、としての虎。その存在は、或る時新日本プロレスの中に、物語を下敷きにしつつ別な存在感を持って急激な光芒を発して急に現れた。そして程なくみんなが知っていて、みんなが実は知っていつつも知りたくないこと、つまり、その虎の仮面が本物でなく、その下に人間の顔が隠れていたことを、示して去った。
そしてその後に出てきた、より巨きく、綺麗な虎、それが彼であった。
三沢光晴のタイガー。

神話の登場人物に現世で見える為には、プロレス会場へと赴かねばならない。”見たいものを見るためには、時間と手間をかけるのが当たり前なのだ。”
そこで、存在としての自らの強さを、それがそのようなものであると理解した観客の前で、示す。ときに血を流し、そして時に一般人であれば即座に回復不能なダメージを負う技を受けて、立ち上がって見せることにより。

ゾンビと綽名されるほど、過酷な技を受け続け、何事もなかったかのように勝利してゆく三沢。或る時その受け続けた技が、やはり一発で致命傷を与え得るものであることを、我々は知らされることとなった。

戦士の語り手である栗本氏と、戦士自体である三沢を、こうして最近相次いで現実世界で失った。知ったとき、僕は少しおかしくなった。悲しい、というストレートな感情より、もっと脱力感を伴うもの。喪失感、だったかもしれない。”セザンヌの塗り残し”で、友を失って葬儀に集まった人たちが、葬儀のあとそれぞればらばらに或いは飲みすぎ、変になった、という箇所がある。人はその喪失感を受け止めるのに、エネルギーと時間と、”わざとらしいきっかけ”が必要なのかもしれない。

自らの神話世界は、自らの潜在意識下の星空と等価の広がりを持った世界であり、僕、という人間個人を根底で支え、力付ける働きをしている。
人間を超越した存在となったこの二人の戦士は、より神話的に、深く、静かに、僕の中の神話の深い所で、存在し続ける。