昭和28年から29年、1年余りの時間を費やした木下恵介監督作品、”二十四の瞳”を見た。
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高峰秀子、須賀敦子、向田邦子、茨木のり子。松村みね子に森茉莉。最近では石田千。
そして勿論別格ながら池田晶子さん。
なんとなく気がつくと、女性文筆家(?)の作品を好んで読んでいる。はっと気がつくと、松村を除きほとんどの人は子が居ないようだ。これは単なる偶然か。なんとなく、”文章が子供”というところが在るのかないのか。
それではこうしてブログを吐き出す僕もまた”母胎化している”ということなのであろうか。
高峰秀子は、亡くなってのち多数刊行された本を通して知ることになった。なので、どちらかというと順序が逆、歳を取った高峰さんから、逆送りでその人生を俯瞰させていただいている感覚だ。これは少し不思議な感じがする。
養女となった斎藤明美さんの本も良く読んでいる。どちらかというと直情な斎藤さんを、受け止め慈しむ”母”としての高峰さんがまた魅力的だ。それは斎藤さんの存在に確かに癒されている高峰さんを感じる所為もあるだろう。
本作で高峰さんは19歳から43歳を演じる。撮影中に高峰さんは29歳を迎えたというが、43歳の演技を見るにつけ、これはもしかして10年以上撮り溜めた映画ではないか、と思った。それほど溌剌とした19歳の演技と、時局の辛さを肩に背負い、夫を亡くし我が子を亡くし、教え子を亡くした悲しみにふらつくモンペ姿の演技との落差があった。そうか、これが女優、というものか。
最近見た”寅さん第一作”でも感じたのだが、勿論時代もあるが、昭和初期(中期?)の頃の女性のしゃべり方、というのは一定のリズムがあるようだ。どちらかというと早い。声に張りを感じる。人々の間合いも含め、これが時代を感じる、ということか。
歴史という実在との一種の接触感を、僕らは生き甲斐という言葉で呼んでいるのではないか。
P.39
作者が作品を作るんじゃなくて、作品というものが作者を生むのだ、という考え、
P.37
考える人 2013年春号での小林秀雄の言葉である。
歴史というものは恐いものだ、大きな個性のある個人の史実から歴史を構築したような気になることは詰まらない、と小林と河上は言う。歴史は大海である、どう泳ぐか個々の事柄である、と。
自分が、自分のみが特別である、という感覚、人は(僕は)知らずしてそう思っている。だが、どこかでそれが倣岸で間違ったことである、もっと言うと自分の生は特別だが特別ではない、という感じも持っている。
小林と河上はそうした思いを言語化してくれている。倣岸であることの空虚感。それに気がつき、自由に泳ぎだすべきなのだろう。
例えばこの二十四の瞳。43歳といえば今ではまだまだ元気な歳では無いかと思うが、時代からそうとは言えないだろう。泣き虫先生、と言われる大石先生の涙がその活力が削がれていることを示す。
だが、18年振りに黒い雨がっぱを着て自転車を走らせる姿から、確かな再生の姿も又、感じるのである。
歴史というのは恐いものだ。しかしそれをどう泳ぐか。
名作、と呼ばれる作品に流れる確固たる思想、を感じた次第である。
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