夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「ひとりでは生きられないのも芸のうち」を読んだ。

内田樹氏の本、「ひとりでは生きられないのも芸のうち」を読んだ。

氏のブログ「内田樹の研究室」はものすごい数のひとが読んでいるお化けブログだが、書かれている内容への共感と共に、こうしたブログが皆に読まれていることが、極端に言えば”この国に良心があること”を示している気がする。

先生が”ブログコンピレーション本”と称するこの本、2008年刊であるから、扱っている事象を忘れていることもあるのだが、そして既に神戸女学院大学を退官されているのを知っている身としては、女子大学の日常がにじみ出るテーマに少し懐かしい気がするのだが、勿論おっしゃっていることが古びている感じは全く無い。

個人的には神戸生まれ、神戸育ちの身としては、この”神戸女学院”という名前に若干過剰反応してしまうことは前にこのブログでも書いたように思う。同じ地区で中学校受験をしたわけだが、塾でこの”出典神戸女学院”と書かれた問題にでくわすと、”出典灘中学”と書かれた問題同様、”はなっから歯が立たない問題”として毎回”天から与えられた頭が2流品である”という暗黒の淵を覗き込むような絶望と、それに反比例するような不思議な開放感でもってやらないで次の問題へとスキップしていた(基本的には算数の問題だった。小学生の理科は虫や星座や動物好きの小学生の僕には近しいものであったし、国語はなんとかなった)。
同じ思いは大学受験のときの数学でもあったから、僕の受験生活とは”とにかくサンスウ(系)はさっぱり出来ない”という思いとの協走であったと改めて思う。

父親が理系であり、だから与えられた頭は理系であるに違いない、という風に思い込もうとしたが、高校1年のときその思いから理系クラスに入るも、物理でいくら答案を埋めても”0点”に近い点を取るに及んで”こりゃああかんわ”の思いと共に文系クラスへと変わったときに感じた、”一応理系でがんばろうとしたよ”という言い訳的解放感、これも学生時代の思い出としては”強烈に残っている事項の一つだ。

そして勝手に、”ボクはフランス語教師だった祖父系のアタマなんや”と思おうとした。そして祖父もまた晩年は同じく関西地区の女子大学で教えていた(神戸女学院ではなかったが)。

そのあたりの親近感もどこかある。祖父とは別に”女子大学の先生ライフ”を語り合うことはなかったのだが。

まあそんな”勝手なる親近感”でもって氏の著作やブログを読んでいるわけだが、考えれば同じことがWEB空間に常時示されているこの本をわざわざ本として買うこと、これは不思議なことである。若干の書き直しはあるであろうが、基本的には同じことが今もWEB空間にはいつでもタダで万人に示されているのだ。ましては氏はいつもブログからの引用はご自由に、と公言されている。それはある意味、全てをさらけ出し提示されると、申し訳なくなってそれが出来ない、ということに繋がるのだろう。
別に氏がそれをわざとしているわけではない。”こちらの問題””こちらのキモチ”として機会があれば本で買ったほうがいいような気がするのである。

そのあたりの複雑さを事前に織り込んで本を開くことが、内田世界に接するときの”骨法””お作法”でもあったりするのだろう。

もう一つ、氏の”引用上等”いやさ、”引用はご自由に”というのは、真実は誰が書いたかではなく、それが真実であるかどうかが問題だ、という考え方を表すものだ。それは池田晶子さんのものを書く姿勢と共通するものだ。真実を読者に示す。読者のためになることを書く。
その清廉さがまた、池田さんや内田さんを読むときの”いいとこ”なのである。

ということで(?)気になったフレーズをすこし引用。

”「私に我慢できないことは、万人もこれを我慢できなく思っている。だから、私が『我慢できないこと』のリストを長くしてゆくことで、世界はどんどんよくなるはずである」という考え方が、グローバルスタンダードに登録されてしまいました。
 私はもしかするとこの事態は「マルクス主義の全体化」と呼ぶことができるのではないかと考えています。” P.15

この部分、”僕文句言うひと、君それを受けて陳謝改善するひと”というスタンスで文句を言うが、実は誰も受け手はいない、ということは今までに僕が漠然と感じていたことを見事に言語化していただいた思いだ。
”文句を言うひと”が全体の2割であればその組織は健全であるが、全ての人がその思いを持ち文句を言いだせばその社会は崩壊する。その前に「別に自分の所為ではないが、そういうことがらが自分の責任と思い改善しようとする」”大人””受け手”、だまってなんとかしようとする人であろうよ。
文句だけいう人の底に流れる”自分でなんとかしようとしない”ずるさは、本当の子供であれば仕方がないが、それが大人であるのであればそれは”残念”の一言ではすまず”虫唾がはしる”。

だがしかし自分もその”楽チン”さに知らず陥ってはいまいか。

・・・”自戒”という言葉を思い出させてくれる一文だ。

ひとりでは生きられないのも芸のうち

ひとりでは生きられないのも芸のうち

ああ、文庫が出ているのですね。だから”ブックオフ105円”に落ちていたのか。

夢のご先祖様ビジネス。

柄にもなく未来予想させていただく。

事業提案、といってもいい。

人は他人の記憶から、忘れ去られた時、真に死ぬ、という。

逆に言えば、死への恐怖のある部分は、忘れ去られることへの恐怖、といえる。

そしてまた、葬儀とは故人の為ならず、”そういうことにしておくことにする残された者の為の精神の安定の為の儀礼”である。

それだけでは、ないのであるが、その要素が強い。

ではどんな提案なのか。

ずばり、故人の顔をし、故人の考え方を内臓した不死のロボット(動かなくてもいい方はお安い胸像タイプもありますよ)なのだ。

寸法もよりどりみどり、極魂大の小人タイプも可能。

商品の名前は”メモリノイド”、ご提供はずばり”メメントモリ社”でございます。

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たちの悪い冗談のようだが、半分本気でビジネスになるような気がしている。宣伝文句はこんな感じ。

ほら、貴族のお城にはご先祖の肖像画が、ハリポタを見ればそれは絵のなかで生きてますよね。

あれですよ、あれの立体版。3D版ともいいますな。

それが最新技術でご先祖の考え方を再現したロボットに。

皆さんのお傍にいつも。小人タイプであればドールハウスで生活もできますよ。

しかって欲しいときはそう語りかけて。わが社の”メモリノイド特製脳=メモリー”であれば、あたかも本当にお父さんが語りかけるよう!!

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必要なものは、作りたいメモリノイド用の顔写真、身体もあればいいですがそこはお好きに。

また対象者の著書、フェイスブックなどがあればなおいいですな。

情報量が多ければ、メモリノイド脳にパターン織り込みで、故人の考えていることにどんどん近づきます!

もちろん人間の基本的立ち居振る舞い、考え方は標準装備。お好みでお好きなタイプにVERSION CHANGEもできますよ。

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書いていてちょっと恐くなってきた。これであれば機械なので勿論人権のない、従順な奴隷さえ可能ではないか。

そして勿論故人でなくともよし。

生きている人、アイドルや俳優でもOK。

これをやると、肖像権侵害になるだろうし、肖像権を売るビジネスも起こるだろう。

個人的には池田さんや小林秀雄などはお願いしたくなってくる。

これが進化すれば、真の人間ではなく、メモリノイドと暮らす、という人もでてくるだろう。

結婚できない人は、メモリノイドと暮す。結構愉しく。

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それはがゆがんだ、幼児的な感情に訴えるビジネスであろうが、たとえばクローン、例えば出産前診断などと同根の、人間の存在理由,生物としての存在理由に繋がる問題であろう。そして多分この国ニッポンでは大きな社会問題になることもなく、することもなく、発展するであろう。”クール・ジャパン”。

欧米では多分人の似姿を作ることへの禁忌感(=神が人を作り給うた)から発展はしにくいし、場合によっては禁止されるかもしれない。だが、日本的宗教感からは全くOKである。なにしろ、死ねば人は神となる。八百万、数多くの神が在るところ。

欧米からは禁止されたメモリノイドを購入すべく、来日者が急増。
これ、医学でもないですしね。

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これは人の心の弱みを見据えたビジネスだ。故人、ペット。かつて手塚治虫は、事故死した飛男(字はこれだったかな?)を再現するためにアトムを天馬博士につくらせた。つくったアトムを見て天馬博士はいった。
”こんなのは飛男ではない!!”

ロボットにして感情を持ち、”親”に生まれてすぐ捨てられて、そのことを覚えている。

なんとも残酷で気の毒な生い立ちが、アトムの物語に血を通わせたのだろうと思っている。

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人が減り、そして会社でのつながりが”高齢化”で途切れると、葬儀ビジネスは先細りだ。結婚もそうだが、”縁に考慮してあまりやりたくもない儀礼をやる”ことはこれからどんどんすくなくなってくるだろう。家族葬、とか。

そのときに葬儀社は、高齢者にそうしたメモリノイドをプロモーションする。変更不可能な”遺言モード”もありますよ。

自身を忘れたられたくない=死にたくない。

これはある。誰にでも。それが”メモリノイド”で遺せるのだ!

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あがき、であろう。死者は消え行くのみ、それが後のものに親切なやりかた。たぶんそうした意見がでる。だが、みんな気にせず実施。

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ちょっとしたブラックユーモアのようになったが、これは形を変えるかもしれないが必ず実施される気がする。いわば”ヒューマノイドタイプロボット市場”のメインのニーズなのだから。

掃除、もいい。でも多分人は嘗て人形に求めていたような癒しを早晩求めるはずだ。

ヒトガタ、という形で。それが動くんですよ?しゃべってそしてあたかもあの人のようなことを、”考えて”いうんですよ??

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讀賣新聞 3月23日(土)、東大大学院教授 西垣通氏曰く、
”人間の分身として生活を補佐するヒューマノイド(人型ロボット)もあと10-20年すれば身近になるだろう”

日経ビジネス 3月25日号 P.144 フェイスブック分析の脅威
フェイスブック分析により、プロフィールに書かれていない情報を”男性の性的志向を88%、人種は95%、宗教及び政治的志向も80%の精度で当てた。性格のタイプや情緒の安定性についても、62〜75%の精度で当てた。”


同P.112 3Dプリンター

”3Dプリンターで作った部品を組み込んだライフル銃を実際に作成。600発以上を発射できるとする動画も公開した。”

13万円の機種も出ているという。

あと、バンダイ仮面ライダーの仮面を取った顔を貴方の顔に、という企画もあった。あれも根っこは同じだ。

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これらの技術を組み合わせれば、”人間モドキ”が出来る。
顔は写真から3Dプリンターで。身体は”汎用ロボット躯体”で。メモリーは”フェイスブック”の要素を取り込んだ”標準日本人パーソナリティー”で。

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禁断の領域、という気もする。しかし池田さんがクローン羊”ドリー”の項で示されたのと同じ、あるいはよりハードルの低い、その分破壊力の強い問題になるような予感がする。

一休禅師の辞世の句は、「今死んだ どこへも行かぬ ここにおる たずねはするな ものは言わぬぞ」であるが、これは遺された者への万感の気遣いがある。

だが別のVERSION、”死んで無い どこへも行かぬ ここにおる たずねはするな ものは言わぬぞ”というのもあったようだ。どちらが正かは解らぬが、この2作、特に後段を味わいつくせば、自分ではない依代を後世に残す我執、ということの臭みを感じてしまうのである。大人の一休さんの”喝!!”が一つの答えであろう。

あ、このメモリノイド、とりあえず今は僕の勝手な妄想でしたか!! なんだかもう実現しちゃっているような気が、してしまった。