評論家、というスタンスの気持ち悪さ
行政に期待する、という言い方、それはそうだが
そういう言い方をするときに自分はどこにいるのか、
自分ではその問題を自分に関係するものと見るのか
関係ないとみるのか。
たぶん後者である、という触感が、言いっぱなし、ヒトゴトという
印象となる。
それと正反対の立ち居地にいるのが池田晶子さんである。
何事も自分につながることとして、考えることの
強さと、責任を取る発言の建前を暴き、
本質そのものを生のままで取り出す、
あからさまさ。
プラトンの産婆術と同じで、自ら真実を気づかせる力。
これが本当であるがゆえに厳しさとなり、流れに安住していると
イタイのである。
秋葉原無差別殺人を犯した25歳の犯人に対し、派遣労働者の
ケアをうたう評論を読んで。
梅田氏や茂木氏は、すくなくとも自分以外のことを考えた
発言をしている。だから心に届くのである。
池田晶子さんに言わせれば、マスコミは覗き見の親玉である、ということになるのだろう。
自らを対象物とはまったく関係のないものとして置いた上で、
対象物を見ること。
ここが不誠実である、ということなのだろう。