夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

サマーディ。

弟子 サマーディ(三昧)はなにかの役に立つものでしょうか?

   また、サマーディにあっては何かの想いが存在するのでしょうか?

 

マハリシ サマーディだけが真理を示すことができる。

   想いは、実在にヴェールを投げかける。

   それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。

   サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。

   「私は在る」という経験は、静かであることである。

 

P.126 ラマナ・マハリシの教え 山尾三省訳 めるくまーる社

 

三昧、という。

 

なんらかの対象物をきっかけに、入る境地である。

 

マハリシの言う通り、そこに"想い”はない。

 

在る場合はそれは三昧ではない。

 

 

想い、には執着があるだろう。

 

その執着がない境地こそが三昧、ともいえるのだろう。

 

 

 

生きている、仮にそうするのなら、維持が必要だ、との想いは、

維持が出来ない恐れを伴うものだ。

 

食べなければ、良く、善く、いまの”自分”より進歩しなければ。

 

それはいいこと、だと思われてきたが。

 

人類に欲がなければ進歩はない。

 

 

人類とは。欲とは。変化を欲するとは、

 

 

なにか。

 

 

 

 

 

そうした想いを置いてきたところにある三昧。

 

 

それはもちろん静かである。

 

静かであることも、想いがないので、よくはわからないのかもしれないが。

 

 

三昧、たぶん音からの訳であろう。

 

 

だがこの漢字、三という数字や味という字と似た ”昧”の字。

 

 

見ているとなかなか境地をうまく指し示しているような。

 

 

まあ、この”言葉”、はじめにあったものではあるのですが、

 

 

言葉、があった故にあるいは“想い”が導かれた/導かれる/導かれやすいのかも

 

 

三昧の中には、たぶん言葉もない。

 

 

だからこそ”静か”がある。

 

私は

 

在る。

 

ラマナ・マハリシの教え

ラマナ・マハリシの教え