人は自ら輝くのではなく、周りの光を受けてはじめて輝ける存在だと思うんです。月は明るいけれど、自分自身では光を出していないのと同じように。(中略)座禅を続けていると、心が澄んできてより多くの光を照り返せるようになるんですよ。
P.22 身体と心が美しくなる禅の作法 星覚
人と交わるということは、自分という楽器をその人に触れさせることだ。
P.95 易とは何か 安岡正篤
すべての偉大な人間は、自己の理想を演じる俳優である。
恋せずば 人は心も なからまし 物のあはれも これよりぞ知る
花は私たち一人一人に見られるのをまっている
気にするのは ロマンティックであるかどうか
リスベート・ツベルガー
以上、なんとはなく最近僕の周りに集まってきた、言葉を記してみた。
互いにあまり関係のない言葉であるようだが、自らの好み、というか普段気にしていることに合わせ、引き寄せられてきた、あるいはたどり着いた言葉でもあるだろう。
自分なりに分析してみれば、共通点はなんらかの形で”生きる”、あるいは”いかに生きる”ということが、含まれた、あるいは感じられる(僕に取って)であるということだろうか。
本を読んでいて、”あ、この言葉は今の僕に必要な言葉だ”と感じることがある。そういうときは、ノートに書き写す。日付を入れるので、まあ、日記的抜き書きとでもいおうか。植草甚一氏はコラージュで有名だが、日々目につく言葉やビジュアルを引き付けて周りにちりばめ、あとあとそれを見たい、という欲求が僕にもある。
まあ、いわゆる収集癖というやつだろうと思っている。
そこには、よく見ると、不安、もあるようだ。
不安??
なにが不安なのか。
よりよくありたい、という
原初的欲求から発しているような気もしている。
だから、欲求は”焦り”と類似している。
そんなところで冒頭の”禅”を見れば、禅は捨ててゆくことだ、と教える。
持っていないと不安、から捨ててゆくこと。
集めたい、捨ててゆく。
集めるのが悪、ということもないだろう。だが、最後は裸の自分のみが残る。
冒頭引用した星覚師の本にこんなことばがあった。
「人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っておった。ところが、それは間違いやった。平気で生きておることが悟りやった」
P.91
永平寺で108歳で早朝から修行僧と同じ禅堂で座っていた故・宮崎奕保師の言葉という。
死を学ぶのが哲学とするのなら、生を学ぶのが禅、ということなのだろうか。あるいはその逆。あるいは一葉のおもてうら。
集めて、焦って、気が付くと遥かに来ているのが生。
確かに、平気では生きられない。
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