ランク付けが好きだ。
人間、好きな人、多かろう。
たとえばポケモン。
伝説ポケモン達のバトルでの強さを求める世界と、映像でのピカチュウのCuteさを求める世界と。
これは明らかに、能力とCuteさの、ランクつけの価値観の戦いである。
でもいずれにしろあるのは、
これはあれよりいい、
あるいは
自分は人よりいい。
そして、
自分はひとよりダメだ。
その気持ちであり、人には影響を与えられない、ことからすると、
その気持ちを持っていると、根源的には気分が良くない。
そういう意味では、格差も、国家も、法の施行としての刑罰や
死刑も、根っこは同じである。
人との比較において、自分があると、
不幸だ。
人との比較がない世界、
これはHAPPYだ。
気分が軽い。
自分を本質として動かせる。
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図書館で格差に関する本を借りた。
- 作者: 山田昌弘
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団塊格差
- 作者: 三浦展
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格差はある、それが前提である。
その格差は、人が平等であるべきである社会では、
けしからん。
親の財力が子供の学ぶ機会を左右する。
けしくりからん。
それはそうだろう。しかし、
だれか、社会とか政治とかに、
怒って、税金でいきとんやからみんなのことを考えんかい、
と文句を言う、
そんな姿を見ると、なにか違う、間違っている、と感じるのはなぜか。
社会とか政治とか、国家とか、そんなに当てにするようなモノなのか?
無理ちゃう??
怒るのはいいよ、でも相手だれ?総理大臣??
無理ちゃうかなあ・・
だから、読んで、そうやなあ、そんな傾向あるわいなあ、
とある意味昆虫図鑑、生態研究ののりで読むが、
で?どうすんの?
である。
まあ、すこしは機会や制度できっかけをよくする、という部分は
あるでしょう。
そこを問題にしているのなら、いいけど、
でも自分のこととしては?自分の問題としては?
そんな態度でええんかなあ。
で、そんな格差はない、人間、上品と下品の格差は大いにある、
格差をことさら見て行くようにしたい、とおっしゃる、
池田さんにどうしても賛成せざるを得ないのである。
- 作者: 池田晶子
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P.122 大変な格差社会
ここを朝、散歩に行って、読んでみた。
なんというか、
喝を入れられたというか、(毎度のことだが)
日々考えて問題を明らかにしているとなぜこうも問題が明確化するのだろうか。
朝、7時前の朝日はもうすでに暑い季節なのだが、
まだ朝日の風情を残すその光と、川辺の草むらのなかでさえずる鳥の声と、川面を見ながら、
既にない池田さんの授業を受けているような感じに陥った。
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”不安とともに、そのような(格差社会の到来の)予感を囁いているのは、これは間違いなく、自身が下流へ分類されるであろうと予感する人々であろう。自身を上流と認識する人が、格差の存在を問題として取沙汰するはずもない。”
(注)中括弧内は、私の注記です。
このあからさまさ。そうなんだけど、人がつい日本独特の、村社会遺伝子のささやきでいわないでいる真実を、白日のもとにさらすところ。たまらんなあ。
”経団連の会長が、共産主義を選ぶのでなければ、ある程度の格差があるのは当然だと語っていた。私はこの発言は正しいと思うと言ったら、経団連の会長がそれを言うのは間違っていると、反論された。普通のサラリーマンが言うぶんには、人はこれを正しいと認めるであろう。しかしこの人はそれを言える立場ではなかろうと。”
やっかみ。そねみ。いうとややこしいやつに、ややこしい突っ込みを入れられること。
本音、建前。わかっていてもそれを言ったらややこしいやつがややこしいことを言ってくるような真実。
ばれたら、終わり。容赦ない。かわいそうだがしかたない。それが日本の社会。文化遺産に落書きをした。外国で。寺の千社札、あれも心理はいっしょだ。古く長く、のこるものに、死ねばだれも覚えてもらえない、自分がサインを書く。生のあがき、のようなものだろう。いいとか、悪いとかは別にして、ある意味やむにやまれぬ心理が根っこにある。それは自身への自信のなさ、かもしれない。もちろん自分も含めて(千社札、作りたいのよね)。
イタリア人は、落書きがばれて、首になった引率教師のことを知り
、イタリア人には真似のできない厳しさ、と賞賛した、と新聞記事にあった。
しかし、賞賛、なのだろうか。人の過ちが、自分にも共通する弱さの発露である、と感じた場合、それを厳しく追求せねばならない社会と、許す社会。そのイタリア人は間違いなく、自分がイタリア人社会にいてよかったなあ、と思って、そういっているはずだ。やりすぎだよ、と。でもわれわれ日本人は答えなければならない。わかってるよ、でもばれたら終わりなのよ、ニホンは。
”経団連の会長という人が、どういう人物なのか私は知らない。なるほどお金持ちなのは確かであろう。しかしそれを言うのが金持ちであろうがなかろうが、この発言は事実として正しい。資本主義社会とは、すなわち、格差が存在する社会である。普通のサラリーマンが発言したって、それは同じである。しかしむしろ、普通のサラリーマンの方にこそ、この発言を正しいと認める人はすくないだろう。格差があるのは当然じゃないか。事実としてこう言えるひとは少ないだろう。このことの方が、よほど問題なのではなかろうか。
人が格差を問題とするのは、当たり前だが、それを格差と見るからである。この場合の格差とは、所得もしくは暮らしぶり、暮らしぶりの豪勢か否かをもって、我々の格差と見るのである。金のあるなしが格差なのである。しかし、どうしてそれが格差なのだろうか。金のあるなしに差があることが、どうして問題であり得るのだろうか。”
ああ、引用が止まらない。ここから、一番当たり前なのに、みんなが話さないことが表される。
”食うにも困る、というなら、なるほどそれは問題である。しかしきょうびこの国で、食うにもこまるような人はおそらくいない。普通には生活できているはずである。しかし、この「普通には」で満足しない、満足できない、もっといい暮らし、豪勢な暮らしがしたいと人は望む。そう望むまさにその心が、外に「格差」を見るのである。豪勢な暮らしをしている他人を「問題」と見るのである。”
小学校の時、人がもっとうから買うてくれ、と親にいうと、人は人、と諭されたなあ。
今もなあ。ドラえもん初版1巻、欲しいもんなあ。
”ゆえに、格差とは、社会のうちに存在するものではなくて、その人の心のうちに存在するものである。そんなものを格差と見ない人に、格差は存在しないからである。人は自分のみたいものしか見ないというのは、いかなる場合でも真理なのである。”
ここのところ。真実である。しかし、その真実さが、時に人は耐えられない気がするのだろう。でもそれを耐え、考えると、かならず出るところは同じである。