夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

習慣。

ふときがつくと、11月も終わりとなった。

すっかりこの場での記載がご無沙汰になってしまった。

理由はいろいろあるのだが、やはり規則正しい?あるいは一定のリズムのある生活ではない、というのが理由であろうか。

忙しさ、というのではない。いや、忙しい、とは心を亡くす、という意味なのであれば、忙しかった、ということかもしれない。

この日記的ブログ、なんでもないようだが、だいたいが気になるテーマをぼんやりうかべつつ、さあ、とすこしだけ”臨戦態勢”(何に?)になってから書いてきたものだ。そのときのテーマは大体が通勤途上で読む本などから、1週間でもやもやっと浮かんできたテーマが多かったように思う。

これが減少した。今年の10月で単身生活1年を経たわけだが、なんとなく車中で本を読まなくなった。もちろん第一の理由は”電車が混んでいること”ではある。そして混んでいる時のアクセス性は、本よりもやはり断然スマホが楽なのである。

池田さんがご存命であれば、スマホ文明論を既にものされているであろう。そしてたぶんお持ちではないはずだ。だって必要ないですから、と。

かつていわゆるガラパゴスな携帯電話がメインであったときもそうであったが、車中では本を読む人が激減して、皆さん携帯を打ちまくっていたものだ。ケータイ小説が流行ったころである。

ここで話が脱線するが、略語はそこに織り込まれた意味を無くす機能があるようだ。あるいは元になる単語がある、という事態の重さを消し去り、新しい言葉としての位置を作る立ち位置を、言葉自体が選んでいるというのか。

たとえばだが”カラオケ”。海外へゆけば既に声のない歌にあわせて歌を歌う、という意味ですらなく、単なる飲み屋のカテゴリーを示す意味に豹変済みである。そこでは”カラ”=歌がなく、空である、や”オケ”=オーケストラ、という意味は皆無だ。少なくとも”ガイコクの皆さん”は意識してはいない。日本から来た、ということもあまり意識されず、まあせいぜい”ニホンジンがすきな飲み屋の形態”という意味程度であるのだろう。

ガラケー”もそうだ。たぶん今の小学生、ガラケーという言葉自体はたぶん聞いたことがあるのではないかとは思うが、それは”電話機能がメインな古いケータイで、他の機能は使いにくい”程度の認識であるのだろう。そして”ガラ”は”ガラパゴス”の略である、ということは、意識することもあまりなく。

あれ、ガラパゴスの意味らしいよ。

なんでガラパゴス

知らない?

。。。というレベルで興味を示されることが少なっているに違いない。

略語にされた時点で、あるいは地点で、流行がありつまりは廃れる期間限定用語、となんとなくカテゴライズされ、示されるもの自体が一段軽んじられる、といったような。

ちょっと、コトバが気の毒なカンジもする。

で、スマホガラパゴスのケータイのときもそうであったが、より操作がラクチンになった。そして動画やネットがPCと同様に見ることができる。ラジオも、電波を気にせず聞くことができる。これはすでにラジオとは言えず、WEBコンテンツの一つに堕した、と言えるだろうが。新聞や雑誌もそうだ。すべて”コンテンツ”の一つに堕し終わったといえるだろう。

堕した、という言い方も既に難しいかもしれない。そこには”悪くなった”、”そうはなりたくないがやむをえず”といったニュアンスがある。それは多分に作成側の残念な意識と、古い形態でそれを使用していたユーザーのノスタルジックな感覚が言わせるものだ。それがそうであるような姿で接することが初めてのヒトビトにとって、そんなことはどうでもいい。

そこに”古い”がある。意識の断層が生まれる。それが”世代”というやつかもしれない。

車中でガラケー時代もみんなガラケースマホ時代はみんなスマホ。いや、動画であれば操作もあまりいらない。没入性は高まるので”つらい通勤地獄からの離脱性”はより高まっている。だから満員電車でスマホ。当たり前といえば当たり前の理屈だ。

文庫本や新書は、ちょっと大きい。スーツの胸ポケットに入れられなくはないが、スマホも入れておかねば(緊急時の連絡があるので)両方入れることになる。

そんなあたりではないだろうか。東京で学んだが、カバンは小さく、リュックは胸の前に持ち、傘は折りたたみ。そうであれば本はスマホで読まねば、に決まっている。でも本なのか?いろいろほかのコンテンツもアクセス自在だ。ちょっとツイッターチェックだ。あ、10分が1秒の感覚で終了。。

と、こうなる。こうなってしまっている。

だがどうも、本とスマホではこちらの脳みそのなかで流れる時間が違う。質の違い、といってもいいかもしれない。どちらがいい悪いでは一応はなく、ただの違いだろうが。慣れ、ではないような気がする。

コンテンツのタイプかもしれない。池田さんが書かれていたような”週刊誌に見開き2ページで連載されるタイプのコラム”、これがある意味僕の理想なのだが、どうもいまひとつ読み応えがあるものには出会わない。それはたぶん有料のようなのだ。読んだことはないが。

池田さんの連載がもしネットで有料であれば読むだろう。たぶん”面白い作家”は今は有料だ。だがそれは”本”があり、”作家”が存在し、その作家が有料でしか書かない、という事態が継続できるしばらくの間のことだろう。そのうち作家も、その作家についた”有料=優良”読者はいなくなる。そう、加齢と共に。

こうしてPCに向かって文章を書く、という行為も下火になってゆくだろう。この行為、できれば一人、部屋に座ってやるほうがいい。もちろんスマホでも可能だが。いまはPCを持っている人も減少しているようだ。これもまた古い形態なのだろう。

受身でコンテンツを消費する人自体が減少しているのだろう。たとえば美術界。ものをつくり発信したい人が増えたが、それを受け取り対価を払う人が減少した、といわれているようだ。それはそうだろう。昔はやはり絵心があり、道具をそろえるだけの心理的ハードルを越えたものだけが”絵を描いて発信”した。いまは違う。PCがあればラインスタンプ製作は総ての人に開かれている。あなたもラインスタンプを製作し、みんなに買ってもらって大金持ちになろう、とこれである。

消費者と製作者が融合したのだ。それがいい、悪いではない。変化、なのだ。

日本のオタク文化を守るために、マンガの2次使用は著作権上認めましょう、となっている。これはそうした切り口で見れば、読者の作者化、あるいはあるときは読者であり、作者でもある、ということを示している。タラオバンナイのようだ。既に古すぎて、文字変換も出来ないが。。


いや、思いつくままに書いてはみたが、どうもまとまらないようだ。

このまとまらなさ自体が、いまの”スマホまみれの”僕の状態であるようだ。

”僕世界”の変換は、かくも深く静かに進行中である。


それがいいのか悪いのかも、既に僕にはわからなくなって、

しまっている。



"「極度に集約された思想は詩に変ずる」と彼は言っているが、この引用句などは、たしかに詩に変じている。構造は明らかではないが、人の胸に飛び込んで来る。僕は原文を探して大きな声で読んでみる。幾度くり返しても飽きないのである。
 人間とは何者でもない、作品がすべてだ。”

小林秀雄 作家の顔 P.13 小林秀雄全作品7 より


たまさか引っ張り出した小林秀雄がやはりいいことを言っている。池田さんがおっしゃったのはこれだろう。作品がすべて。作品という気品には欠けるとも、このブログもその端くれではあるのだろう。心せねば、とも思う。