”絶対”ということばがある。
魅惑的な言葉である。
口にすることでそれこそ”絶対”の一端に触れたような、”絶対”にアクセスする自分に酔うような、そう、”永遠”や”神”や、そして”生”や”死”、エロス、タナトスといった哲学ワードの一つであるだろう。
思うに、哲学を考えるまさに味覚を感じる”醍醐”味として、これらの”言葉”として表される事象、真実に捕まり、翻弄されることがあるのだろう。
このあたりの苦しみを通した甘美な愉しみは、池田晶子さんの著作からそれを僕が垣間見たように感じる芳醇な精神世界なのである。
翻弄される精神。
繰り言のように夜毎繰り返されるめくるめく、そしてとりとめのない循環し続ける思想。
”考える”の甘美なる毒に、気付く人はもしかすると少ないのかもしれない。
それは、なんだか義務なのである。
お勉強、なのである。
”お勉強”の意味は、実際はやりたくないと感じつつ、この驚くべき奇跡たる”自分”の”人生”の時間を、無駄に強制されて使うこと、”食べるために生きる”と規定された”この人生の生きる”をすこしでも確保する先人の知恵と思われている行為を、ホントか??と思いつつなすことを指す。
要は、やりたくない。
そんな”お勉強”の中に無理やり詰め込まれつつ、実はその出自に”甘美なる、陶酔を含む行為”である”哲学=考える”は、次第にその”馬脚”を表す。
馬はうつくしい。脚も、美しい。大多数の人間よりも。
そうした無味乾燥界から、考えるは本来の”イデア”の世界に飛翔しつつあるのかもしれない。
その行為が、めくるめく陶酔、この世界で唯一”やるべき価値のある”行為であることを示しつつ。
西田幾多郎の文を池田さんは引いている。
考える人 P.339
「絶対精神が、絶対的に存在するとは、絶対無を契機として絶対我が口走る刹那滅的冗談である。」
どうであろう、この陶酔感。
いや、ただわかりにくいだけ、という感じもするのだが。
哲学的であることの不幸は、幸福と区別がつきません。
・・・これも池田晶子さんの名言である。
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