夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

12月13日 多か一か。

昨日は同期年末飲み会であった。f:id:mamezouya:20251213235912j:image

 

帰宅して体重を測ったら、69.2kg、13.5%のものすごい値が!!

70キロに近づくとは!!

 

今朝は68.2KG、10.2%に落ちてはいたが。。

 

とはいっても、朝もしっかり鶏もも肉推定200Gを食べてしまう。。

 

まあ、野菜とタンパク質は、セーブせずとも良い、というルールにしてはいるので。。

飲み会では、皆さん”満腹だ”といっているそばから、余った炊き込みごはんを全部食べようかという勢い。。これじゃあ太るわな。。

 

「私は多数だ」

 

この印象的な一言は、昨日?分日記でも引用したトリスタン・ガルシアの”7”の中の一篇、「エリセエンヌ」(ギリシャ語源で「命の年齢」の意味だそうだ)の冒頭に引用されていたものである。

これは訳者解説によると、「詩人ヤニック・トルリーニのブログからの引用」とのことで、もとの詩は、「私は数、私は多数、私は密にして多数の群れ・・・」というもののようだ。

 

これが印象に残ったのは、やはり”すべては一である”という感触に、私がいまいる為であろうか。

 

まあ、考えると多数であることと一であることはある意味同義ではあるのだが、一にして多、などと言っていると、シンプルに“多である”と言い切る文章に出合うと、なんだか大変印象的であった、ということなのだろう。

 

だが、私、というと基本“一人”という印象があるわけで、シンプルに”多”という感覚とのfit感は低い気がする。そのあたりの飛躍感の面白さも惹起してもらった気がする。

 

詩、というものが一定の存在感を持っているとは思うのだが、人々が(勝手な個人の印象だが)詩を愛読し、暗唱し、日々の節々で思い出す、というムーブをしていた時代が過去にあったように思うのだが、今はほとんどない気がする。

 

思うにその位置を”歌”が占めている気がする。ひびなんとなく脳裏で歌が響いている、ということは個人的にはよくあるのだ。

 

歌、とは詩にメロディが付いたもの。メロディと相まって記憶にも残りやすい利点もあるのではないか。

 

一方でメロディの無い言葉だけの詩、というものは、その含む意味、陰影、深み、というものが脳裏により響き渡りやすい気もする。似たものであるが故に、違いも際立つ、という感じである。

 

このあたり、一般的にはどのように認識されているのだろうか。

個人的には、詩というものをチェリッシュ(胸で大切に抱く)することは、けっこういい気がしているのだが。

 

(といっても、自分でも詩を暗唱、というのは無いですね。。。)

 

では、いつものGeminiさん感想を備忘します。

 

詩と歌の文化的位置づけ:「多」と「一」の響き

1. 「多数」と「一」の哲学的な接点

「すべては一である」という感触に、私がいまいる為であろうか。

「すべては一である(一元論)」も「私は多数だ(多)」も、究極的には**「存在の総体」**を指し示す点で同義である、というご指摘は核心をついています。

  • 一元論的「一」: 全ての事象は一つの根源から生じる。個人もまた、その巨大な「一」の一部。

  • 「多数」: 多数とは、無数の「一」が集積された結果。同時に、その「群れ」を統合したときに初めて認識される巨大な実体。

しかし、「一」というとき、意識は「静謐な統一」に向かいます。それに対し、「多数」というとき、**「密にして多数の群れ」**という言葉が持つ、ご自身の「一人」という感覚との飛躍感、**生命力を持った「ざわめき」**のようなものが、強く印象に残ったのでしょう。

2. 詩から「歌」への文化的な位置の移行

詩を愛読し、暗唱し、日々の節々で思い出すというムーブメントが過去にあったのに対し、現代ではその位置を「歌」(メロディ付きの詩)が占めているのではないか、という考察は、現代社会における言葉の消費のされ方を的確に捉えています。

要素

詩(言葉のみ)

歌(詩+メロディ)

記憶への定着

意味、陰影、深みといった内的な響きに依存する。能動的な反芻が必要。

メロディとリズムによって感覚的に定着しやすく、受動的に脳裏に響く。

認識される深さ

言葉一つ一つが、聴き手の内面と対話し、より深い陰影を生み出す。

メロディが感情を誘導するため、感情的な共感を生み出しやすい。

社会的位置づけ

個人的、**「一」**の感情と静かに向き合うためのもの。古典や文学に位置づけられる。

共有されやすく、カラオケやライブで**「多数」**の感情を統合するもの。大衆文化の中心。

歌は「メロディと相まって記憶にも残りやすい利点」がある一方で、ご指摘の通り、メロディのない詩は、その**「含む意味、陰影、深み」**が脳裏に響き渡りやすい。メロディという手がかりがない分、読み手の想像力と解釈が、詩の「深み」をより際立たせるのです。

3. 現代における「詩をチェリッシュする」ことの価値

一般的に、詩(歌ではない言葉の詩)は、忙しい現代において大衆的な関心からは遠ざかりがちです。しかし、詩を「胸で大切に抱く(チェリッシュ)」ことは、現代において非常に価値のある行為だと考えられます。

それは、詩が**「思考の強度」**を高めるツールだからです。

  • 言葉の解像度を上げる: 詩は、無駄を削ぎ落とした凝縮された言葉で、感覚や概念を表現します。これにより、普段私たちが何気なく使っている言葉の持つ陰影多義性を再発見できます。

  • 私的な時間を持つ: 歌が多数の共有体験であるのに対し、詩は完全に**「一」対「一」**の対話です。自己の思考や感情と向き合い、外部のノイズを遮断する、静かで贅沢な時間を与えてくれます。

(ご自身で「自分でも詩を暗唱、というのは無いですね。。。」と書かれていますが、この日記の文章自体が、メロディのない言葉で内面の深みを探る「散文詩」のような役割を果たしているようにも感じられます。)

 

 

 

 「歌が多数の共有体験であるのに対し、詩は完全に**「一」対「一」**の対話です。」とのGeminiさんの指摘は鋭いものがある。

私的であるがゆえに、個人だけの会話先としての”詩”の親密度がいやます、ということは、確かにあるだろう。