今朝の体重66.8kg、体脂肪10.1%。昨晩は55.7kg、9%であった。
ついつい食べすぎる。。

昨日はスポーツセンターへ行った。先週は1回だけだったので、すこし気合を入れようと思ったところ、グローブを忘れたことに気づく。
考えてみると、私は筋トレをグローブ抜きで行うことはここ10年ほどなかった気がする。どうしても重量を扱うと、豆ができるのがいやだったのだ。
だが、忘れて周りを見回すと、ベアハンドで行っていうひとのほうが多い。あまりに久しぶりで少々怖かったが、やむなくベアハンドでトレーニングを行った。
結果は新鮮な驚きであった。革よりもやはり最後の手への吸い付きがいい。ぶら下がり系の動作は最後の踏ん張りがきく。
やはり手の豆は増進した気がするが(´;ω;`)、これは適宜動作によってベアも取り入れていくといいかもしれない。
これこそ瓢箪から独楽、失敗から生活が良くなる例だろう。またあたらしいことをやる(マンネリを避ける)という意味でもよかった。
最近相変わらず忘れ物が多い。わたしのADHD的性格が影響している気がする。目の前から見えなくなると忘れる、というやつだ。
これをどうしようかと悩んでいる。とにかく置く場所を決めて、目に見えなくともいつもここにある、という形がいいかもしれない。
今週は図書館で借りた本が無くなって、新幹線で忘れたかとかいろいろ探したが、結局留守宅の版画を斜めにするために重ねた本たちの一番下から出て来た。
ちょうどいい、と思って使用したが、あとで現状復帰しよう(この場合は借りた本なので、帰宅時の鞄に入れておこう)としても見えなくなると忘れるのだ。
このパターンが多い。結構忘れたことにがっかりしているが、がっかりしている暇があれば対策を講じなければならない。
とにかく、目の前になくなると忘れる、ではなくなるような管理はしない。
これしかないだろう。
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最近では、社会生活でのしんどさ、が気になっている。働く、といっても、自主的な働きと他から強制される働き方は違うだろうが、自主的といってもそれで恒久的に”食べて”いくことは難しいだろう、と思ってこうしてサラリーマンとして働いてきたわけだ。
昨日の日記では、”共同体からの承認を一度忘れるために”物事に熱中する、ということをある意味意識的に行うことが、心を軽くする技・スキルであるという宇野常寛さんの本の紹介を紹介したが(畳語(笑))、この本では”瞑想”を勧めているようだ。
これは社会関係を離れて、己で己を見つめる動作である。
そしてあるがままの自己をまずは見て、時に”あるがままの自己”はきちんと自身に認識されていなかったりすることもあろうし(自分だからわかっているはず、と思っているからだろうか)、それを正面から見据えて、あるいは見つめて、”愛しいおもいで”全面で向き合う行為であろう。
私は個人的には、一度は永平寺に行って、座禅したいと思っている。
座布も座禅用のものを買ってもっている(背もたれになっているが)。
自分でも自分を見つめることは、よく生きるためのスキルだと思っている。
(この前永平寺で修学旅行担当の僧が、修学旅行女生徒を触った、という記事を読んだきがしますが、禅的飛躍把握でいけば、このお坊さんはどのような扱いになるのか、すこし気になります。まあ、ついつい他人事と思えなくなるという気風の私は、毎日の修学旅行女生徒の対応は、はじめ愉しくも結局は辛い(こういうことを押さえることが)のではと、半ば同情してしまいます、、いや、悪いことなんですけどね)