昨日は飲み会。今朝の体重は66.8kg、体脂肪10.1%。昨晩は瞬間風速で68キロ超えていたかも!そこからの夕食(飲んだあとも普通に食べる感じに最近はなっています)で70キロいくんちゃうか!!とびびっていたので、66キロ代だったのは嬉しい。
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諸君が、明日は平和になるだろう、といえば、その明日は永遠の明日であり、その平和は決して今日にはならないであろう。
私がクリシュナムルティを知ったのは、それほど昔ではない。
調べてみると、彼が生きているときには結構日本でも知られていたような気がするが、私がいわゆるヘルマン・ヘッセ経由でグノーシスからユングに至り、神秘主義あたりへと分け入ったころで並列的に読んだインドのヴァーダンタ哲学がらみで彼にたどり着いた気がする経緯を考えると、普通に今日本で彼を知ることは結構難しい気がする。
その生涯を知れば、当時のインドという国の厳しい立ち位置をまずは感じるところである。英国との主従関係がなければ、このクリシュナムリティという知性は、今こうして我々が知ることはなかっただろうとおもうと、なんだか複雑な思いもある。
彼のいう”平和”とは、いまこの瞬間に厳然として存在するが、ほとんどそのことを人が理解できない境地、すなわち”知足”というものに通じるだろう。
手段として生きるために我が”生き延びる技や生きる構え”を幼少期から意識して鍛える・鍛えてもらうことは必要だとは思う。
だが、その姿勢が身に付きすぎると、振り返り自身の状況を客観視する、ということが、なかなかできなくなってしまう気がする。習慣が本能化(疑似本能かもだが)することの怖さであろう。
そこで”知足”。今の状態、まあ、”日本の比較忖度集団圧社会的”には仮に”それで平均なのか?”と仮になる状態に今の私があろうとも、本当に自分にとってはどうなのか。
そういう境地で自分を客観的に見ることが、知足への一歩、といってもいいだろう。
人の仕草が気になりすぎる、という我々の第2の天性は、ここ日本で生き延びるために一応はきちんと身に着けるべきライフハックではあるだろう。たとえその仕草が、外人からして、奇妙でこびへつらっているように見える(実際そうなのだが)のは仕方がない。そういう閉ざされた島国生活精神空間なのだから。
だが、その技は、たとえば”サラリーマン社会”でそれを駆使しつつ、本当に死ぬまでそれでいいのか、ということを、たぶん日本人は一度考えたほうが、結局は”魂の自由”につながるのではないか、と思ったりする。
私は幼少期に集団圧を感じて、結構ずっと憎んできたように思う。まあ、必要なのだろう、とは思い、”それが人間社会だ”と思いつつ、”めんどくさいなあ”と思ってアニメや漫画や小説の世界に逃げて来た。
サラリーマン生活を長く続け、まだまだその中に絡み取られてはいるが、最近はそのめんどくささがだいぶ可視化され、良くなってきた気がする。
例えば残業(サービス残業や深夜・徹夜勤務)。喫煙。ハラスメント。スーツ文化。男尊女卑(まあ道半ばかもですが)。
ハラスメントが日本の集団圧に加味されると、たちまち”ハラスメント・ハラスメント”になってしまう残念さは健在ではあるが、それでも電車の中で強制的にタバコ煙を吸わされていた昔を想うと、それだけでも社会の進歩を感じるのである。
いまが不幸だ!と思うのは自由であるが、ここ日本、いろいろあるがそれでも結構世界全体のなかでは悪くはない。
まずはそもそもキチンと英語を喋れない身で、外国にいっても大変なのだ。
ということなどをぼんやり考えながら、ぼちぼちやっていきたい、と思っている。
(知足、はほんとに重要な境地ですよね。。まあ、クリシュナムルティの境地は、知足も含み、池田晶子さんやマイスター・エックハルトのような水平・垂直への無限思想跳躍、と類似のひろびろとしたものだろうとは思いますが)