夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

8月12日 俳句ってなかなか楽しい。

今日の体重66.5kg、体脂肪11.2%。昨晩トレーニング帰宅後は66kg、体脂肪9%。

BMI的には22を切る位なので、まあいいとするか。

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漢字とは表意文字であるので、もちろんアルファベットであればカリグラフィ?などがあるが習字などでは文字自体の存在感がデカい場合がある。

 

例えば漢字で”薔薇”、といえば、なんというか字面を見ているだけで、スケッチされた薔薇の花を見ている気配がする。まあ、日常生活で”薔薇”という字を書くことはいままでもあまりなかっただろうが、今は手書きよりタイプなので、難しい漢字を画面で呼び出すことは書いていた時代よりもあるいは増えているのではあるまいか。

 

まあ、カタカナで”バラ”と書いても、もちろん脳内に薔薇は咲くのだが、比較するとイメージ喚起力に差異がある気がするのだがどうだろうか。

 

まあ、私の場合は、やはり”薔薇”といって脳内に浮かぶのは深紅の薔薇であろうか。大輪の物もいいが、小ぶりでしまっていて、周りをこじんまりした葉(薔薇の葉の緑も比較的濃い緑である気がする)で包まれた”筋肉質な”薔薇などは、イメージを貰うだけでも嬉しいキブンだ。

 

コトバが世界を作る、という井筒理論(まあ、専売ではないだろうが)からすると、書かれた、あるいは画面での”薔薇”の文字が、わが脳内に薔薇を咲かしめる、存在を喚起する、ともいえそうである。

 

最近読んでいる倉阪鬼一郎編の「元気が出る俳句」でも、そのような記述があった。

 

1754年に没している西澤魚日(ぎょじつ)、生年は不明なマイナーな歌人であるとのことだが、以下の句ではそういう文字(漢字)の存在感が如実に感じられる一句として紹介されていた。

 

天鵞絨の牛うつくしや躑躅

 

びろうどのうしうつくしやつつじはら、と読む。

 

いや、これは我が抜き書きノートにまずは転記したのだが、天鵞絨、という漢字は多分人生で初めて手書きした気がする。

また”躑躅”あたりも人生2回目位ではないか。

 

これらの語たちのイメージ喚起力も凄い。

躑躅、あたりは、個人的には髑髏、当たりの語を思い出すのだが(髑、の字と似てるんだ!)まあ、髑髏のイメージも同時喚起されて、花がもつ時に過剰な美、盛りであっても儚さを必ず含む美、ということも思う(髑髏は端的に死や”なれのはて”というイメージを呼びますしね)。

 

また、個人的には、こういう句を見ると全く古さを感じないのはなぜだろうか。

もちろん現代では、普段は”天鵞絨”や”躑躅”という漢字はあまり使わない。だが漢字を多用する文体などもある。そういう意味では単語というのは、古語であれば格別、そのままの名称が残っているこれらの言葉を見ると、全然古く感じないのだ。

 

魚日は1754年に没しており、1700年代と言えば個人的にははるか昔の感がある。1800年代後半位なら、なんとなく近代という気もするが、1700年代と言えばぼんやりと侍や着物姿で野良仕事の農民、というイメージしか沸いてこない。

 

だが、この句の濃厚なみずみずしさはどうだ。牛たちは赤いツツジ(薔薇の深紅とはまた違う赤だ)の波間で草を食む。その背には太陽が降りそそぎ、牛の皮膚をビロードのように照り返しているのだ。

 

これは全くタイムレスの世界、まさに”詩界”と言うべきものだし、一片の名画を見ている感もある。日本での限定感だって薄いのだ。

(別に日本限定をDISっているわけではないが)

 

前に倉阪さんの”俳句は絵である”という解説を紹介したが、まさにこの句は絵画感が全開といってもいいだろう。

 

最近は私はインスタやXで”世界(含む日本)の名画を見ては、個人資料用(非公開)のインスタに資料としてためまくっているのだが、俳句や短歌も同じ感覚でこうして書き写せばまるで”画帳”のような趣をも帯びるのだ。

 

(いやあ、俳句ってなかなか楽しいですね)