今朝の体重67.3kg、体脂肪11.2%。昨晩は67キロ、9.8%。
夜に少し炭水化物を食べたので、それが影響した感じである。
俳句は短いのではない。俳句は速いのだ。
少ない字数で一行書きされた俳句は、目にしたつぎの瞬間に刺さる。先端が小さいから圧が一気に集中してこっちに刺さってくる。ヘタをすると刺さったまま一生抜けない。なんてズルい詩形なんだ。
俳句いきなり入門 千野帽子 倉阪鬼一郎 元気が出る俳句 P.3 より孫引き
俳句は絵画であり、音楽である。
倉阪鬼一郎 元気が出る俳句 P.91
世界は言葉でできています。その外部に遍在している言葉の一部がココダヨと光り、俳人の内部へ風のように伝わるとき、俳句は悦ばしく生成されるのです。
倉阪鬼一郎 元気が出る俳句 P.94
さて、いままできちんと俳句や短歌に向き合ったり、じっくり読んだり、ましてや作ったりしたことはほとんどない。
なんだか昔1句つくったような記憶もあるが、どんな句であったかはもちろん記憶もない。
だが、上述の本を借りてきて、全体で1000句に及ぶような句に接していると、編著者の倉阪さんがおっしゃるとおり、俳句というものはこれはなかなかなんというかとんでもない存在・世界であるという思いが募っている。
結構昔の句でも、ありありと作者の気もちや状況が、千野さんがおっしゃるように、直截にずばりと胸や気持ちに伝わる。
また花鳥風月を詠むだけかと思えば、もちろんそんなことはなく幻視や気持ちもこの語数では信じられない位に深く詠むことができる。
そして語数が少ないが故に、こちらが気持ちの中で、まあ、”勝手に”、受け取って、補完して、味わう、玩味する、という面を託されていて、それが楽しいし、逆に心が忙しく反応するのである。
だがその分、こちらのエネルギーも必要である。読んで味わうには、精神的なエネルギー(余裕、という面もある)が結構必要で、よく”忙しい現代人には心の余裕がない”などという定型の手あかのついたような言い方があるが、まさにその通りで、心に余裕がないとなかなか味わうことが難しい。
であれば、勢い”詠まずにいられず、奔出するように詠むひと”と”時間的余裕のある、例えば無職の高齢者(言い方はアレだが)、などが、今の短歌・俳句のメイン享受層である、というイメージを勝手にもっている。
だが、私が好きな幻想世界、これを詠んだ俳句なども最近すこし目にするようになった。
言葉で書かれた幻視は、自らの思うような場面を心で描くことができる。
原作付きの小説が、実写化されるとキャストがどうこう、という感じがする、あれのことだ。(その逆か?)
そういう意味では、受け取った幻視を自分で創って楽しむ、ということを、短歌俳句の読者はもれなくやっているのだろう。
と言う意味で、俳句はなかなか楽しいなあ、できたら自らもつくりたいなあ、などと思っているのである。
(短いので、書き写して再読する、という行為もラクチンですね)