古本を購入した。
1987年発行、定価8500円のものを、家からほど近い長島書店で3000円にて購入。
実は最近は、グノーシス関係の本を買いあさっており、ありがたくも近隣の神保町古書街では結構あったので、先月無理して何冊か買って資金が底をついていたのだ。
長島書店は、何年か前にAMAZON古書でグノーシス関係の大著を清水飛び降り価格の18000円で購入している。本の裏見開きに長島書店の紙がはってあり、どこで買ったのかがわかる。
その時は別に長島書店がどこの古本屋さんか、など気にしていなかったが、こうしてご縁があり神保町に来てみると、さらなるご縁を感じるところだ。
見開きに自店の名前を記した紙を貼る、というシステムは結構秀逸で、売る気はないが最悪同じ店(徒歩4分)で買い戻してくれるかな、という気も起きるわけだ。
今回買った本は、グノーシスそのものではないが、地続きだと思っている神秘主義関係の本。たぶんなかなか普通の古本屋では見かけないし、あっても結構高価だろう。
今回の本は、状態はまあイマイチかもしれないが、1987年刊行であれば37年経過している。それに8500円といえば多分当時でも相当高価であるので、それを買って、読んで、古本屋に売る、というパターンの絶対数があまり多いとは思えない。
まして内容は当時も今もまったくマイナーとしかいいようがない”神秘主義”である。
(まあ好きな方はめっちゃ好きでしょうが・・)
であれば逆に読めればOK、状態がぼろぼろということは箱付き本ではあまりないので、3000円であればこれは買いだろう、ということで狙っていたのだ。
無事購入できてほっとしている。
(マイナー本だ、と思っていても売れちゃうことがあるのが、神保町の奥深くてやばいところ)
さて、読むのはこれからだが、これは1965年から66年にかけて行われた官費支給の研究会の結果だという。
1965年であれば、来年60年である。
あとがきを読めば、1965年から1987年発行まで22年が過ぎており、なかなか本にできずに”光陰矢の如し”との感想を編者の上田閑照先生は述べておられる。
そこから37年後のこの2024年に入手である。いわば、”光陰矢の如し”の2乗、とでもいうべきところか。
さて、なんというか小難しい気配のする大著であるが、私は別に勉強しよう、と思って買ったわけではない。
興味にまかせて、今の私のなんというか”琴線に触れている”項目に関連する本をただ買っているだけだ。
たまたまいわゆる哲学の”京都学派”に連なる本たちが、面白そう、と思っただけである。
西田幾多郎、鈴木大拙、マイスター・エックハルト、上田閑照。こういった方々が知りたい、と思って考えたことが、後世いわゆる”哲学”の分野にあとから区分けして入っているだけで、
みなさん基本は”考えたいことを考えた”結果だと思う。
それを”哲学”のフォーマットに乗せること、書籍化して後進に伝えることが、”生業”にできる仕組みがあった、ということだと思う。
なので、”考えることはただで、自由で面白くてしかたがない”。
この境地はわが敬愛する池田晶子さんが達していらした境地であり、そのことを書かれたものを読むことで、自分も自分にたまたま与えられたこの”自分”という仕組みの中で、自分でも自分なりに考えていこう、と思っているわけである。
ねがわくば、それが自由にできる時間と環境とついさぼってしまう怠惰な自身をコントロールする技を与えたまえ。
このあたりが今の私の望み、ということに、なってくるだろうか。
(たぶんすぐ読めませんが、楽しみです(⌒∇⌒))