昨日は松のやでロースかつ+唐揚げ定食、今朝は横の松屋でしゃけ定食+牛皿+生卵+サラダ。タンパク質的にはまあいいだろう。
新大阪駅、出張中で体重は不明。
今アニメ、”葬送のフリーレン”を見ている。今は新幹線でイヤホンで第6話を見ながらこれを書いている。
よくできた物語だ。
2周めなので、28話まで見た結果を通して再び物語をたどれるので、1周目とは違った味わいがあるようだ。
思うのは、創るものの側の感覚と、受け取る側の感覚との違いだ。
創ることには、膨大な時間が必要となる。
だが膨大であることはただ単に悪いわけではない。
創作物と創作者が濃厚な時間を作れるということは、当たり前だが、楽しくもあるのだ。
もちろん週刊誌の漫画連載は過酷で、ながく続けていると消耗するだろう。
自身の思惑よりも長く続けさせられた結果の困難を、故鳥山明氏が語っていた。
強制されての創作は、自身の発意のものではなく、仕事となるからだろう。
一方受け取る側は場合によっては物語の筋だけを追うことができる。基本それで終了だ。
多くの読書とはそういうものだろう。
だが少数のお気に入りのものは、なんどか読み返すこともあるだろう。
そして読み返すたびに、なにか前の回、前の前の回、あるいは数年前、数十年前の気持ちとは違ったものを得ることもあるだろう。
これがいい。
創る側の愉悦と、あるいは似てくるものかもしれない。
だがこれが厄介でもある。
自身の”受け取ったことにより生まれた自負”が
厄介なのだ。
“創り手ごときが、勝手の創作物を改悪するな”
そのことばを聞いたとき、はっきり言って驚いたものだ。
なにを言っているのか、と思った。
だが、それはまじめに発せられたコトバだった。
(いろいろ難しいですよねー)