夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月9日 読書は部分でOKかも

昨日は久々にジムに行くことができた。

 

通常は週2回、基本月曜と木曜に行くことにしているが、出張や、これは意外だが休日であったりすると行けない。

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休日なら行けばいいではないか、と思うのだが、ルーティンに組み込み、行くことへの精神的負荷を限りなく下げておく(私の場合は、会社帰りの道にあるようにするのがいいようだ)必要がある。

休日に部屋から出て、ジムに行くことはほぼ困難、いや無理だ。ずっと家にいるとわざわざジムに行くことができない、という体験を勝間和代さんが語ってらっしゃったが、そのとおりだと思う。

 

私のような相当のジム好きでもそうなのだ。今は毎日鍛えられていないので尚更だ。

前の会社の時は、昼休みに会社(工場)設置の小さなトレーニング器具のある場所で毎日ちょっとやっていた。

この無意識のルーティンがいいのだ、と最近しみじみ思っている。

 

まあ、その代わりに、昼休みは速足で皇居東御苑まで行って帰る、ということを行っている。これで4000歩稼げる。それに「鍛えてはないが歩いてはいる」という自分への言い訳にはなっている。ちょっとだけ精神安定上いい。

 

そんなこんなで先週行けなかったので、だいぶ鈍っていたが、まあやれてよかった。空いていたので、時間も早めに完了した。

 

体重は昨日夜で64キロ、体脂肪9.7%。朝は64.3kg、11.2%。朝と夜、夕食を食べた影響を織り込むと最近はだいたいこんな感じである。

 

鳥胸肉をほぼ毎食食べているので、胸のパワーが思ったより維持できていた、と感じたのは気のせいだろうか(たぶんそう(´;ω;`))。

 

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さて、めっきり本が読めなくなった。前読んでいたか、というと、量は読めていなかった。

そしてフィクションを読むことがガクンと減っていた。ではノンフィクションかというと、まあ、エッセイや神秘学系、たまに哲学系、精神分析系、といったところが主なので、純粋なデカルト主義的フィクションというわけではないだろう。

 

前は自らに読むスピードを誇るようなところがあった。

だがなぜ自らに誇る必要があるだろうか。

 

目的と手段の乖離。

”読んでりゃいいことあるだろう”という希望的観測。

 

でもそんなことはないのだ。

 

で、いつの日かたどり着いたのが、抜き書き。

日記替わりのバイブル型バインダーに、本を読んで気になった部分を、その時に書き写すのだ。

その時、である。線を引いたり、付箋を貼ったりはしない。

人によるだろうが、私は極力本に書き込まないタイプである。

 

まあ、どんどん書き込んではどうか、という提案を感じたのは、「百冊で耕す」近藤康太郎さんの著書からである。

うーん、いいかもな、と思ったがまだ行ってはいない。

 

 

 

 

まあ、そうなると忘れるので、その場で書き写すしかない。

2度読みたいなと思う本でも、2度めは結構精神的には”義務感化して”負担になる。

 

(そのあたり、マンガなら再読は容易だな、と思っている。

私は絵は自身に取り込み、栄養として再生産につなげたい、という願望があるので、電子は今のところキツイ。)

 

これは結構続いていて、将来定年後とかにいろいろなことを思い出すよすがとして読み直そう、と楽しみにしている。

 

個人の脳で上記記憶できている量はたかが知れているし、私は記憶力には自信がない。だが、死ぬ前の走馬灯、ではないが、脳、あるいは潜在的無意識、のような場所に、全経験がライフノート、あるいは個人的アカシア年代記(まあ、それが全存在に繋がっていれば宇宙の記憶である、ともいえるのだろうが、もちろん確認する術はないわけで)のように残っているような気もするので、こういう”フック”によっていろいろ思い出すこともあるかもしれない。

(死ぬ前の走馬灯は、緊急時として今までの体験から死をさけるなにかの手段があるのではないか、と脳が緊急指令を出しているからだ、という記述をどこかで読みましたが)

 

私の好きな山田稔さんは、94歳になられたと思うが昔の経験を日記から、あたかも他人の日記のような感じで想起されて文章を作られる。

 

 

自分の日記なのに、随分客観的だな、と感じ入ったことを覚えている。するとなんだか日記だからフィクションであろうに、ノンフィクションの香りも漂う。

まあ、私の場合は山田さんがたぶんなさっているように、詳細なことはなにも書いてはおらず、ただの本の抜き書きではあるのだが、それでもすこしはフック機能があるやもしれん、と恃みに思っているわけである。

 

もう一つ、このバインダーには、電車通勤時代はエスキースを描いたりしていた。その時代のエスキースをベースに、銅版画化したものが結構ある。

 

まあ、芸術の女神の後ろ髪、などというにはクオリティに問題があろうが、私が私なりにアクセスできる創造の泉には、こういった手段が時には役に立つだろう、と思ってもいるのだ。

 

(そういう意味では、一つのお気に入りの抜き書きができれば、ああ、この本読んでよかったなあ、と思います。時間と(買った本なら)金がプライスレスだなあ、などとも思います。なのでタイトル回収、”読書は部分でOKかも”となったわけであります)