夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

6月19日 皇居お濠でガイジンランナーと激突。歩いていてランナーに抜かれるのが不快。紀田順一郎「蔵書一代」を読む。

今朝の体重65.1kg、体脂肪11%。

 

昨日一昨日は2日間家に籠りっぱなしになりそうだったので、慌てて午後3時から歩いて図書館に行った。結果12000歩ほどあるいたのだが、気候がよく薄曇りの天気、特に汗もかかずであたので、あまりカロリーを使わなかったのかもしれない。体重と体脂肪はほぼ1か月前と同じくらいである。

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お濠廻りを行くのだが、ランナーと観光客が多い。マナー的には時計まわり(逆だったかもれない、走らないので不明)となっているが、歩いていると観光客、ランナーが密集した地点で逆方向から来たと思しき外人ランナーと接触した。

 

まあ、ぶつかって先方はそのまま行ったが、そのデカさ、ぶつかったときの言葉(外国語でなんかいってた)からの判断からであり、振り返って英語で文句を言おうというレスポンスは勿論ないのだ(つたないボキャブラリーで言ってしまうとバトルになるやもしれない)。

 

ランナーの方々には申し訳ないが、私は歩いていてランナーに抜かれるのがいやである。なぜただ抜かれるのが嫌なのだろうか、不思議ではあるのだが、やはりゴルゴ13・デューク東郷ではないが、後ろから足音がすると後ろに神経がいって、気楽にあるけない、ということがあるようだ。

 

別にぶつかりそうにはならなくても、なんとなくふらふらした足取りになるし、あ、別に邪魔してませんよ、という言い訳(別に相手にするわけではないが)が頭に浮かぶのだ。

 

お濠まわりは基本信号がないし、関西人イラチ学派の私は信号で待っているとイライラしてしょうがない。ランナーも信号がないからお濠なのだろうが、そういう意味では利害がぶつかるのだ。

 

そして数が多い。何人も何人も抜かされるたびに神経が疲れるのである。

 

向こうから道幅に広がって3-4人来る場合は、絶対に引かないことにしている。勿論こちらは一人で、基本道の端を歩いているが、絶対にまっすぐに進む。だがまだこれでぶつかったことは(ニアミスはあったが)なかったのだ。

 

なんとなくガイジンは、日本人がどくだろうと思っていたような気がする。

反対まわりでそもそもランナーがほとんど来ないので、私はガイジンの接近はまったく気づかなかったが、まあ瞬間イラッとした。

 

まあ、このイラッが溜まっては損なので、この場で吐き出させて頂くわけだ(話す相手もいないので)。。

 

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さて日比谷図書館では紀田順一郎先生(平井呈一荒俣宏関連で、別に師事しているわけではないがこういう呼称になった)の「蔵書一代」を借りた。

 

ご縁があり、神保町に住まうようになって、これもご縁で近くにひと棚本屋も開かせていただくなどで、やはり本関係の本は昔より身近になった。

 

この前留守宅もよりの本屋(TSUTAYAレンタル併設)が閉店していたのを見ても、ますます紙の本の凋落がひしひし伝わるが、この状況を感じるにつけ、もはやいかんともしがたい段階に入った、という気もする。とても残念だが。

 

個人的にはこれからも好きな本をただ買うだけ、という感じだが、基本もう本棚には入るわけがない。勿論床面に積んでいるのである。

 

何年かまえに身を切る思いで一部を減らしたが、その経験がつらすぎて少し本を買うスピードが遅くなった。

 

それがいいのか悪いのか、自分でもよくわからないが、それでも本は増える。ひと棚本屋で売ればいいのだが、私の棚は最安値棚(ひと月5500円)、文庫や新書がちょっと置ける位なのだ。単行本は無理。それに基本ほとんど売れない。自己開示の場、と割り切っている。

 

本書は2017年刊。1935年生まれの紀田さんが80を超えて蔵書3万冊をヤケクソで古本屋に売り払われるまでの逡巡と経緯が書かれている。なんとか寄贈できないか。長期で管理保存できる仕組みはないか。数を減らそうとしても1冊1冊を見ているとどれも減らすことができない。

 

レベルは違っても、私も思い当たることばかりだ。ここで思い出したのが森博嗣さん。好きな庭園鉄道をやる金が欲しくて始めた”バイト”の小説が当たり、大学助教授(たしか)をやめて専業作家となり海外で日々庭園鉄道を運営開発されている。

 

で、その鉄道を残したいか、というと、そんなものは処分する金を残してあるので、遺族が金を払って綺麗に処分して貰えばいい、と割り切っている、と書かれていた。

 

ジャイロモノレール始め、貴重なマニア垂涎の品物ばかりであろうが、自身一代、とすっぱり割り切っていらっしゃる姿が、さすが森博嗣、というところである。

 

蔵書家はそうはいかない。そもそもその蔵書の多くは、先行する蔵書家が残したもの。それを自身の判断でもって集めたいわば自身の一生の本による履歴書、のようなものだ。

 

結果的には紀田さんは”ヤケクソ”で残したい本もすべて古本屋に引きとらせたのであるが古本屋手配のトラックが出ていくのを見送っていると、不意にあしもとがぐらぐらして気が付くと地面に大の字で倒れていたという。

 

気丈にふるまっていても、若い時から集めに集めた、いわば自身の「魂の半分」のような蔵書が引き裂かれてゆくのを見るのは、

 

その魂自体が耐えられなかったので、あろう。

(レベルは違いますが、他人事ではありませんね。。(´;ω;`))