カタリ派の基本教義は二元論である。善悪二神の対立を想定し、それぞれの属性と創造の系列を考える。善神の属性は不変不朽、不可視の霊性でその領域は霊界である。悪神(悪魔)のそれは変転常なき物質、形而下の世界、つまりは現実世界である。現世の創造者たる旧約の神、モーセの神は悪神にほかならず、もちろん旧約聖書は排撃せねばならない。善神の創造にかかる霊(天使)が肉体の獄舎に捕えられ、現世に繋がれていたものが、とりもなおさず人間である。キリストは人間の聖なる期限と救済を啓示すべく来臨した天使であって、降誕奇跡、受難等の事件はいずれもそのように見えたにすぎない(仮現論)。完全な天使が物質にかかわることはあり得ぬからである。
渡邊昌美 異端カタリ派の研究 P.10 1989年 岩波書店
カタリ派、というものがあり、異端とされ宗教的には絶滅せられた宗派である、ということをなんとなく知ったのはいつ頃だろうか。
変な話だが、本来関係のない海外の呼称が、同じような音で日本では別の意味がたまたまあるが故に、別の意味のことを考えずにはいられないし、時には関係しているような気がする場合がある。
ここでは「カタリ」である。この語はすでに「嘘を語る(卑俗で卑劣な)輩」といった意味を個人的には想起する。
異端であれば「カタリ」でもあるわな。
そう感じるわけだ。まあ、たまたまであることはわかってはいるのだが。
という意味では一回聞けばなかなか忘れられない呼称でもあるわけだ。
私は個人的にヘッセ(デミアン)からグノーシス派のことを知ったものだ。キリスト教の立場でなく見れば、別段悪魔崇拝でもなんでもないのだが、虐げられ抹殺された立場である、と聞けば一体どのあたりの教義があかんかったんかな?と興味がわくわけだ。
年代的にはだいぶあとのカタリ派(自称ではなく、カトリックの立場からの呼称。当人たちは当然われらは真のキリスト者だ、と自負していた)だが、上掲の教義(正確にはいろいろバリエーションが当然あるようだが)を見ると、グノーシスとの類似はあきらかだ。
まずは両派とも、世俗的に生きるよすが、あるいは単に稼ぐための生業としての教会とそうであれば当然うまれる悪徳や権益に辟易して、そのようなものが生まれるこの世は基本「悪」だ、と教えるこの宗派の教義こそが正しい、ということで発展したのだろう。
ここのところを見れば、なんというか当たり前、その純粋さを恐れて、自らの存在危機から彼らを火あぶりはじめ異端として絶滅させた方がいかがなものか、とここ極東の島国の住民である私は思うのである。
存在理由のぶつかり合い、相手をつぶそうと思えるものが、思えないものを根絶させた。
そういう理解になっている。
まあ、その理解は私の勝手なもので、それを誰かに主張しようとかは思わない。
思わないが「異端」とよばれた人々の純粋さを知るにつけ、その内容をちょっと知りたいな、と思うのである。
(ということで、本を借りました。)