夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神は信じるものではなく、考えるものなのだろうか。”信じることと考えること”。そしてプロテインのスプーンを取り出して置いておくことについて。

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今日の体重は65キロ、体脂肪は7.7%であった。

昨日は中華料理を堪能した。アルコールは生ビール、台湾ビール、紹興酒紹興酒、場所を変えてハイボールを2杯。今週は月曜も大ジョッキと大ハイボールを飲んだので、週間摂取アルコール総量はだいぶ多いような気がする。

まあ、お声がけいただけるつながりはありがたいし、いやいや飲んではいないので、いいとしよう。そして飲んだあとはなるべくよく寝るようにしている。昨日は12時に寝たが、起きたのは結局6時半くらいであった。無理して4時起きをしない、というのが最近のトライ、人生研究である。

毎日改善の芽を鵜の目鷹の目で探して、年を取ればとるほど生きるのが楽になるようにしていこう、というのが、今朝見た勝間和代さんの教えであった(過去YOUTUBE).

これはまさにそのとおりで、経験があると自然にいろいろと気持ちの余裕が出るものだ。今が一番若いし、今が一番人生で経験がある。そして極論すれば「時間」とは単なる概念なのだ。

万物流転はヘラクレイトスであったか。諸行無常というのも同類の考えだが、どうしても「無」という言葉が難解ではある。

あきらめろ、につながる場合がある、ということだ。

であればよき循環を志向してそのなかにまろび出つつ、遊行にふける、というのが人生ではないだろうか。

ということで、本日の1ミクロン改善①。プロテインのスプーンを外に出す、だ(笑)。

まさに些細さの極地。人にとってはどうでもよすぎることだが、個人的には重要な改善だ。

私は毎食20gのプロテインを摂取することとしている。勿論外食等でタンパク質摂取が多い時は、あまり食べると肝臓に負担がかかるので、摂らないときもある。

3キロのプロテインパウダーから、付属のスプーン2杯をシェイカーに入れて摂取するのだが、スプーンを袋に入れっぱなしなので、シェイカーにパウダーをすくって入れるときにスプーンについたパウダーが手にまとわりついて嫌な感じだった。

朝は1杯のんで、そのあと昼用にもう一杯分のパウダーを入れる(シェイカー毎会社に持参)のだが、1杯目を飲み干して洗うので、水滴が手などについており、袋はいったスプーンを取り出すときに手にメチャパウダーが付くのだ。

いやいや、それは普通買ってすぐスプーンを外に置くでしょ。

そういう声も聞こえそうだが、そのときの「普通」というワードこそが「魔の比較」、エゴの手先である言葉なのだ。

そういうことができる人はできる。できないひともいる。

それが「エゴ」から自由になる考えかただ。

それが「人と比較するように教育された人間」が「比較から自由になる」キイコンセプト、なのだ(大袈裟(笑))。

私はできない方の人間だ。そして思いついたのだ。「そうか、普段スプーンは外においておいたらいい!!!!」

おもいついた時点で気分は爆上がりだ(笑)。これから手に着くパウダーが減るのかと思うとニヤニヤが止まらない(大袈裟(笑))。

まあ、ふざけて書いてはいるが、心は正直そんな感じだ。

料理についてもそうだ。料理、などと言っているが、品目は1品のみ。
「煮る」だ。

無限味噌汁、と称す鍋に、ワカメ、オリーブオイル、エゴマ油、だし、を入れる。水道水を沸かしたものを適宜足す。味を適宜味噌で整える。

基本これだけだ。

ここに、ダイコン、キャベツ、カボチャ(最近あまりみかけないが)、胸肉、鯖缶(水煮)、ブロッコリー、たまにキノコ類やもやしなどを入れる。黒ゴマも肝臓にいいらしいのでドバドバ入れている。トマトなどを入れることもある。

大根の葉も洗って入れる。カボチャやダイコンはたわしでごしごしあらってから、皮ごと切って入れる。

とにかく野菜を洗って切って入れる。これだけだ。

カボチャやダイコンの皮をむかない、という思いつきはよかった。なぜなら食べるのが自分だけだからだ。自分で決めて、自分で責任(農薬リスク)を取る。

なので、洗いは3回位やっている。ちなみにキウイも洗って皮ごと食べている。これはオーストラリアあたりでもやっているらしい。

ブロッコリーも旬なのか、最近よく見るので、茎も切っていれている。これはすこし筋が気になるが、ぐつぐつに崩せばまあ食べられないことはない。

空腹は最大のソース、というソースを使っている(笑)。基本煮にまくってクタクタだ。

まあ、「きちんとした皆さん」からすればまさに「噴飯もの」の1品であろう。そんな気持ち悪いもの、死んでも食べたくない、とおっしゃる向きもあろうかと思う。

だが、食べるのは私なのだ。

私がよければOK。これが自由、である。

とにかくすこしカリウム過剰摂取が気にはなるが、野菜は無限に食べてよし、というルールを持っている。その時ヘンテコなドレッシングなどに気を付け、味なしがもっともいい。

食べれば食べるほど「健康貯金」(BY勝間和代さん)が積みあがる、という感覚だ。つまり「罪悪感」の反対、「達成感」しかないわけだ。

レーニングは実際の鍛え+どう食べるか、というのが基本である。鍛えるだけではどうにもならない。なにを食べ、どう総運動量を意識保持し、どう眠るのか。これであろう。

人生時間の総自分プロデュース。考えたらすべからく生物(あるいは無生物も)はそれをやっている、無意識に。

精神を安寧に保つ、というのもある。座禅や瞑想、入浴やストレッチなどは重要テクニックだろう。

自己流ではあるが、できるときにやっている。こうしたことを取り入れるのも、経験が必要なのである。

然るに、存在的秩序に従って有の究極なるものこそ、ソクラテス以前期の哲人達が「一者」と呼び「存在」と呼び、或は「神」と呼んだもの、また今やプラトンが「善のイデア」と呼ばんとするところの絶対的存在者であるに外ならぬ。
井筒俊彦 神秘哲学 岩波文庫 P.70
神、というと一日本人である私の感覚で言うと、とにかく「人格神」という感覚からうまく離れられない。例えば手塚治虫の「リボンの騎士」(なかよし版、だったかな)でチンクと神がこれから生まれるサファイヤの魂について議論している、それこそが私の中の「神」であるのだ。

なので、なにかを考えなにかを決める、超絶の力を持つ存在。ギリシャのオリンポス12柱、などが一番近いイメージであった。

多分厚いキリスト経、仏教、イスラム経などの歴史の中に今を過ごす文化にある国々の人々の中に坐する「神」というものは、そういう感覚とはだいぶん違うのかもしれない、という感覚をぼんやり獲たのは、けっこう最近のことである。

そのことを明確に示す言葉が、上掲した井筒の文章である。遠きギリシャの哲人達は、今の人類の精神年齢をとてもはるかに超えている、という感をいつも持っている。本当に同じ人類なのだろうか。

かれらこそが「神」に連なる人々、神の一部である、といえるのかもしれない。

ああ、その時は「人格神」ではないほうの「神」ですよ。

 


そう思えば、神とは信じる対象ではなく、考える対象である、という気がするのである。

(いやあ、いろいろとっちらかった文章で恐縮です)f:id:mamezouya:20230601001553j:image