夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

果たせなかったもう一つの人生の可能性について。

 

今、国公立大学の初年度納入金は80万円を超える。それだけの貯金を持っている高校生はまずいない。だから、「金主」たる親に出してもらうしかない。多くの親はそれを「教育投資」ととらえるだろう。投資であるなら短期かつ確実に回収したい。いきおい「実学」志向になる。「投資家」は哲学や文学や数学や歴史学のような何の役に立つのか分からない学問領域は見向きもしない。「教育投資」という言葉が流通するようになってから日本の学知の厚みが失われたのはそのような理由による。
 だが、学費がゼロなら受験生は「金主」に気がねすることなく、好きな学問領域を選択することができる。無償化すれば、家が貧しいが大学に行きたいという「貧しい秀才」と自分の進路は自分で選びたいという「不羈の青年」が集まってくる(はずである)。(中略)
 もう何度も書いていることだが、私が大学に入学した1970年、国立大学の入学金は四千円、半期授業料六千円だった。一万円札一枚で大学生になれた。一万円の貯金なら高校生にもあった。だから、自分で好きな専門を選べた。親が何と言おうと、「じゃあ、自分で授業料出すからいいよ」でことが済んだ。

内田樹の研究室 1月20日

内田先生は引用自由とおっしゃっているので、すこし長めに引いた。

何故引いたか。うらやましかったからである。

自分は自分の進路を結果的には自身で決めたし、就職もそうだった、とは思っている。

大学が「好きなことを追及する場所」でありうる、とは思っていたが、ありうる、とは「好きなことが実学的であれば」という条件があった。

だが人に言われるより、とにかく餓死せずに生き延びる、ということが自身のなかでやはり一番だ、と自分のなかで思っていたし、

好きなこと(まあ、幻想文学と漫画ですな)は当時は学術的とは言えなかったので、研究対象にしよう、という案は浮かばなかった(今はありうるかな)。

試しにマンガや小説を描いてはみたが、いわゆるプロ1年生突破レベル、には自身としても到達していない、という感触を得たし、そこで「なにくそ!」という気分が出てこない時点で、自分の中でこれはあかん、と思っていた。

文学好きではあったが、語学はイマイチで、この原書を読むために仏語をまなぶぞ、というようなパションはなかった。

つまりは、「才能が必要」と思う性であったのだ。

努力でなんとかしよう、と思えればよし、結局大学4年間でなにかあれば、と思いはしたが、どうやらつかめなかった、という感触であった。

学費がただで、やりたいことがあるが実学方面ではなく、そしてここが一番大事だが、それに賭ける気概があり、とりあえず「稼ぐ」ことは置いておいて全身全霊でまずは打ち込もう、と思っている人が集まる大学は、

たぶん私にとってまぶしくもあり、妬ましくもある場所となるだろう。

(歩めなかったもう一つの人生の可能性、という奴ですかね。。)

 

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