向けて、今日は中古家電を購入した。当日現地に搬送してもらうことにした。
冷蔵庫15900円。洗濯機15000円。それぞれ2017年、2008年製。三菱電機といまはなきサンヨーアクアを選んだのは、やはり国産信仰があるからなのか。
多分ハイセンスでもハイアールでもアイリスオーヤマでも、中華製が特にいかんということはない。多分10年は行けるだろう。ただそのあとの2-3年はどうだろうか。サンヨーは無くなってしまったが、家のドラムアクアは未だ長年頑張っている。
東京であれば配送料無料で設置もしていただけるとか。レンタルより安く、廃却は多分引っ越し屋さんに頼めば15000円程度とのこと。45000円で購入して、消滅する。
さて、「犬も歩けば棒にあたる」というのは、「念ずれば叶う」と「セレンディピティ(だったか!?)」の合わせ技の意味を、発する相手によって両方もったり、いい方を感じさせたりするよき言葉だなあ、と今朝のシャワー時に思った。
夏はシャワーだ。本当は湯舟で今日の日記のネタなどをぼんやり浮かばせるのがいいのだが、夏はシャワーなのだ。
シャワー中のことなので、思いつきも若干刹那系である。いぬもあるけば・・終了、という感じである。中身はあまり考えられない。
よく欧米の方々がしんどいことがあったときシャワーをつけっぱなしで床にペタリ、とされているのを映画など(今思いついたのはダニエル・クレイグでリンドが思わず銃で人を撃ったあと悩んでダニエルが慰めるシーン)で見るのだが、日本では湯舟に浸かりっぱなし、となるのだろうか。それはそれで悩みが溶けていきそうではあるが、シーンとしてはただリラックスしているようなのんびり感が強くて、シリアスシーンにはなりにくいような気もする(まあ、アレンジ次第でしょうが)。
多分生物はすべからく海で生まれたものの進化系なので、DNAの一番最初のところに水の中にいることの愉悦と安心感が刷り込まれているのだろう。
さて、犬もあるけば、であるが、そのことわざ?を作った人は「犬」といいいながらもそれは謙遜した「我」のことであろう。うろうろ悩んででも歩いていたらなにか良い物に転機として遭遇した。まあ、そのようなことを「犬と棒」に託して示そうとした。言おうという事が結構高尚であるような気がしたのか、自身を犬に、棒にぶつかって痛い、という残念表現で敢えて人に受け入れやすくしたのだろうと思う。
だが結構ありがたい言葉だ。求めよ、さらば与えられん、という語と同じ意味でもあるのだが、その感触は全然違う。神や賢者に教えてもらうのか、犬が棒にあたる姿を自身(主語)として発見するのか。
そういう意味では結構素晴らしい仕組みと構図、なのかもしれないと思っている。
(なにかにぶち当たりたいですね。お菓子頂いた犬の画像、シェルティ大好きです)