夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自由を求める自由について。

森博嗣氏のブログを折に触れ再読している。

なんというのか、そう「小気味いい」というのか、常識なようでいてその徹底的に論理的な思考を開陳されると、結構な頻度で「鳩豆」状態となる。それが刺激となり、ついつい読んでしまうようだ。

自由であるためには精神が自由であることが必要である。勝間和代さんがこれもよくおっしゃる、「住宅ローンを借りていることを心のどこかで絶え間なく感じている、そしてそれを負担に感じている」ストレスは侮れない。これがあると精神は自由ではなくなる。まあ、1回くらいのローンなら忘れているかもしれないが、自身の定年後、子供に引き継がせるローンなどであれば、微細なストレス、という言い方はもはやできないだろう。じわりじわりと文字通り「精神を蝕む」ことになるだろう。

だがそうした蝕み度は、性格が結構影響するような気がする。細かいことをあまり覚えていられないたちの私はそういえば250ccのバイクを48回ローンで買ったことがある。

森博嗣 自由をつくる自在に生きる P.89
自由の価値をいうのは、過去の自分よりも、今の自分が、そしてさらに将来の自分が「より自由」になっていく変化を感じることにある。常に自由に向かって進む、その姿勢こそが自由の本質だといっても良い。目指すものが自由であるなら、目指す姿勢もまた自由である。そういう不思議な連続が自由の特性だといえる。

読んでみると当たり前のようでいて、結構気が付かなかった視点を感じる。「自由でいようとする、という姿勢自体が自由」、たしかに自由でいようとすることこそが、精神をのびやかにする。

そして精神の自由があってこその「今の自由」であることがわかる。

例えば大学生。自由である現在があるが、就職とは不自由として感じられるだろう。勿論在学中に起業するなどした少数の人は別なのかもしれない。村上春樹は確か早稲田に在学中よりジャズ喫茶を始められたような記憶がある(うろ覚えです)。精神の自由、というものを強く求める心があるようにも思う。

一方で将来の自由の気配、例えば定年(いまは65歳、もうすぐ70歳なのかもしれませんが)後なんとか蓄財や年金でやっていけそうだ、となるときに自由を感じるのだろうか。ヘイルメリー誌を立ち読みしていると、65歳で完全定年になったが、予定していた資格や体質改善になかなか取り組めない、という声が書いてあった。

例えば休暇。例えば在宅勤務。単なる一日や数日であっても、朝は勤務の時のように動けない。人間というものはある程度の不自由をうまく取り込むことも、あるいは必要なのかもしれない。

(まあ、完全な自由を目指す、というのはよい目標かもしれませんね)

 

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