夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

時について。

今朝の体重。体脂肪は10.2%なのでまあまあではあったが。

体重を増やすには、筋肉をつけて増やすのが本来いいのだが、炭水化物等を取るとまあ内臓脂肪あたりからついてくる。

思えばジョコビッチの本を読んで、グルテンフリーという発想を知ったのだが、その後厳格ではないにしろ糖質を摂ることを少な目にすることで、比較的いろいろ調子がいい。

まずは腹。

今の腹はまあ、いまいちではあるのだが、なんとか2年後くらいにムカデ腹を目指したいなと思っている。食べるとすぐぽっちゃりとなるのだが、糖質を抜いてゆくとそれほどぶくぶくにはならない。

あとなんとなく疲れにくい感じがする。これはあくまでなんとなくだが。

本当はどんぶり等が大好きで、お替り大盛なんでもこい!という感じでやってきた。栄養学的知識が皆無であったからという面もある。

だがどちらかというと「日本人は米を喰え」といったスローガンが頭をよぎり、パン食より米、ということで米はあまりセーブせずに来た。

だが精米はよくなくて、玄米のほうがいい、というのを知ってからは米もなるべく少なめにしている。

今週は家の近くのラーメン屋にいった。ラーメンという食物はどちらかというと趣味や娯楽寄りのような気がする。カレーもすこしそういう気配がある。

どんぶりを除き重量1KGということであったが、きっちり1KG太っていたのは笑った。昨日は7751歩しか歩けていないので、昨日朝64.8kGであった体重が200gアップした(細かい)。

最近は少しだけトレーニング量が増えた気がするので、筋量アップをもうすこし意識して上半身のボリュームアップを目指したい。

さて、

ブラウンにしてみれば、われわれが一日生きながらえることがすでにして奇跡だった。過ぎ去る時間の阿片には、解毒剤はない、と記している。冬の陽を見れば、いかに早く光が灰のなかに失せ、いかに早く夜がわれわれを包むかがわかる。一時間、また一時間と時は積もってゆく。時そのものが歳をとる。ピラミッドも凱旋門オベリスクも、溶けてゆく氷の柱だ。

土星の環 イギリス行脚 W.G.ゼーバルト 鈴木仁子訳 白水社 P.29

まるで闇の中の透明な断層を滑るように風は音もなく流れた。

村上春樹 1973年のピンボール P.196(文庫版)

時というものは目には見えないし、単なる方便として人間が考案した「考え方」であるだろう。

タイムマシン、などという概念が、例えば「タイムパトロールぼん」などの創作物で(ちとマイナーか(笑))提示されてから、人はほとんどタイムマシンの存在(実現はいまだであるがいつかはできるもの)を無意識で信じるようになったように思う。

だが、タイムマシンはないだろう。

時、という概念は、単に「進むこと」をあらわすだけだ。

時間、が進めているのではない、存在のありかたを。

という意味では、変化するものではあるが、それでも今は今しかなく永遠である、という考え方もできる。

昔は今に包含され、未来も今に包含される。

これは考えようによっては真実になる。

ちょっとこんがらがりますが。

だが「時」として言い表さざるを得ない「心境」もあるだろう。

わび。詠嘆。さび。

さび、とは「錆び」の意もあるという。

変わるもよし、変わらぬも良し。すべては一のいろいろな側面でしかない。

神は「柱」として表されるが、人も確か「塩の柱」であらわされるように思う。

結局は柱であり、数瞬のちには崩れ落ちる。あるいは塩として「溶ける」。

溶ける先は、水ではなく、「空気」であるかもしれない。

地球で水の一番そこに降り積もる砂を想う。それは絶え間なく降り積もっているだろう。時も抽象的にはその通りだ。

その「積み重なり」を弄い、弄び、愛玩するために、神は「生命」をつくり給うたのか、と一瞬思ったりもしている。

(時を全面に認めすぎるのは、すこし辛い気がしています。なんでかなあ)