子は親を選べない。いや、宗教的にみると「選んで生まれてくる」ということも一方では言えるのだが。その時の「選ぶ」はどちらかというと「個体の意思」よりは、「総体の、全の、意思という明確な形を取り切っていないがちょっと意思といえなくはないかもしれないもの」によるものかもしれないが。
親も子を選べない。なんというか、「子供をつくる」「結婚は恋愛とは別」というひとは、個人的にはあまり好き、とは言えない気がするのだが、まあ、大多数の皆さんは違う意見かもしれない。
選ぶ、とうことばにはすべからく「比較」の心が入っている。
そう、「地獄」と呼ばれる「比較」だ。
人と自分を比較することは地獄なのだ。
まあ、学校は基本比較する場所であるように思う。だがそればかりではないだろう。「何かに接する機会を与える場」でも一応はある。
比較だけではない友達。
比較だけではない素晴らしい教養と接する機会。
絵空事めくのだが、まちがいなく、1ミリくらいは、その可能性を含んでいる。なので、あきらめてはいけない。
親ガチャ、というと、子は親を残念に思っているのだろう。
親を残念に思うことも、親にとってではなく、子にとって残念だ。
本当は残念に思いたくない、親がすきなのだ!!
そういう嘆きをこの「親ガチャ」という言葉から感じるのだ。
悲しい、哀しい、言葉である。
なので、親を含む他者のせいにせず、どん底から1ミクロンでも、立ち上がろう、という気持ちが、必要なのだろう。
(おみくじ凶でたら、あとは上がるだけ、という例のやけくそ気分ですね!)