夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ブレードランナーの2019年。レプリカントの生と、昆虫食とされる昆虫の生。

思ったより変わらなかったものである、未来は。

久々にブレードランナー(1982年)をアマゾンプライムで見だした。

キルビルなどでも思うのだが、いわゆる漢字文化、というか、漢字というものが醸し出す雰囲気になんともエキゾチックなものを、いわゆる欧米の人々は感じるのだろう。

よく言われるのは、英語Tシャツ。胸の英語の意味を私などは全くわからず、単にデコレーションとして視覚消費している。英語話者は結構あれを見てぎょっとしているらしい(伝聞ですが)。

漢字、そしてひらがながいわゆる英語圏では同じ扱いになるのは考えればあたりまえで、胸に書かれた意味がメチャクチャであろうとも、形として面白い、ということが最優先なのであろう。

これは例えば、漢字圏におけるひらがなでもそうだ。

香港に「優の良品」というブランドがあるが、この「の」の使い方は日本語にはない。優れた良品、と言ったとしても、「優」と「良」が意味でだぶるので普通は云わないだろう。

これはいわゆる漢字の国で「の」を見た人々が「あ、なんだかわからないが、日本由来の製品なのかな」と思わせる装置なわけである。

この、見たことはあるが、意味がよくわからない、という中途半端な立ち位置が、妙にマーケティング的には心に残るのだろう。

まあ、「優の良品」にしても、日本の旅行者が笑いながら目に止める効果さえあるかもしれない。現にこうしてそのことを思い出して語る奴もいるわけだから。

ブレードランナーを見て、感慨深かったのは、このものがたりが既に過去である「2019年」の物語であるところだ。これはとても新鮮である。あの頃は未来とはこのことであったのだ。

2019年ならこんな感じになっているだろう、という感覚をその時誰でも共有できた。

いやこの内容は未来すぎるだろう、2119年位にしとけや。

いまならそうおもうが、それほど遠くない未来の幻視として、あの物語が破綻なく存在していたのだ。

レプリカントは出現していないが、動物の細胞から、臓器であればできるようになった。あるいは代替臓器として。

そうなると、その寄せ集めでいわゆるレプリカント(これはもともとの人間からの由来が皆無なので、サイボーグとはいえない)も技術的には可能と言えなくもないのかもしれない。

昔は設定がよくわからなかったのだが、レプリカントはそう、全く一度生きた人間とは関係がない存在だったのだ。なのであれほど、簡単に処分できてしまうのだ。

人間でなければ処分していい。

だが、本当にそうか?

 

最近はどうせ殺して食べてしまうにしても、その動物になるべく苦痛を与えないようにしよう、という考え方がある。どうせ殺すのであれば偽善である、という感覚もあるが、苦痛を敢えて与えるのはやはりできるだけ避けた方がいいだろうと個人的には考えている。

だがそうするとコストと相反する。欧州から殺処分する鳥の規制を日本国で取り入れないように、と陳情する業界からの賄賂が問題となった。衆目は主に賄賂に向かったが、「殺される側の鳥の苦痛」に関しては一顧だにせず「コスト」のみの視点で大反対する業界の視点は、そもそも動物の苦痛という視点が見事に皆無なわけであり、そういうひとには「面倒な押し付け」であり「賄賂でやめてもらおう」とするのは考えてみれば当たり前なのだが、やはりちょっとレベルが高くない感じはする。

牛や豚や鳥がかわいそうだから、タンパク質は虫から取る。

言っている意味はわかるのだが、では虫は痛みを感じるのか。

仮に痛みを「人間のように」感じないにしろ、やはりその個体個体にたまたま与えられた生を頂くわけではある。虫はいくら殺してもOKというのはちょっとやはりまずいだろう。

命を生きるために頂きます、

そんな気持ちがあったほうがたぶんいい(偽善かも、とも思いますが)。

そこへいくと、植物はどうか、とか、では何も食べずに滅亡するのか、ということに行きつくので、個人的には引っかかりながらも思考停止している、というのが正直なところだ。考えることを、卑怯にも逃げている。

人、動物、虫、植物。このような順番だろうか。だが江戸時代の日本人にとっては、虫と動物は一続きの存在として認識されていたという。

西欧式の分類法が無ければ、考えてみれば当たり前かもしれない。

本来は順番をできればつけたくない。青臭いということになるだろうが、たぶん基本は皆さんそう思うはずである。

(昆虫少年でした。。。)