夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

装身具。

昔サラリーマンにとっての3種の神器といわれたものがあった。

うろ覚えだが、パーカー、オメガ、ロンソン、だったように思う。

多分1960年代ではないだろうか。

 

昔ある企業体の創業家筋の一員にあたる人に、「時計はカシオなど安いものをするものだ」と言われたことがある。

その時私は若いながら無理して買ったロレックスGMTマスター2を装着していたので、これは私に対するなんというか苦言なのかな、と思ったものだ。

勿論、金持ちと言われる人がいかにもの装身具を付けていると、大きな反感を受けるものだろう。多分その人はそうした経験をかずかず経て、上記の助言をしてくれたのだろう、とは思っている。

また、いわゆる高級と言われる装身具を喜々としてつけている若いやつ、という見方をされたのだ、と感じると、気分が良くなかったことを今も思い出す。

男性の場合は時計は(今は付けない人が多いが)唯一の認められた装身具だ、と言われる。「認める」というのは、微妙な言葉であり、そうして仕事での暗黙のルール、というものが昔から嫌いでしかたがなかった。

なので、「一見ルール内にギリギリ入っているようだが、実はその出自はまったくルール外にある」というようなものを、好んで使ってきたように思う。

小学校の時から、制服が嫌いで、本来小学校には制服はないはずだ、という思いから、先生に「この服は義務ですか」と聞いて、「義務ではない」と言質を得て、堂々と着ていかなかったことにも、その萌芽があるだろう。

なので、「人に生意気な奴と思われないように、時計は安物にする」という考え方は、どうにも嫌だった。意味は分かる。わかりすぎるほどわかる。だが従いたく、なかったのだ。

冒頭の「3種の神器」というものにも、すこしそういう嫌な面はある。だが稚気愛すべし、とでもいうような、こどもが買ってもらったおもちゃを誇るような、どうしようもないが許してください、的な要素もあるだろう。私は嫌ではない。

腕時計で行けば、「オメガ」というのがほほえましい。その時代でもたぶんROLEXは中東の石油成金向けの金無垢の時計を作っていただろう。もちろんオメガにもそのカテゴリーの製品はあっただろう。だがそれがたぶんメインではなかった。多分コンステレーションあたりがメインだったはずだ。

金無垢は無理だが、コンステはビジネスで使える。

実感を伴わない、全くの推測だが、そのように思っている。

そう、金無垢。

金無垢のように、自分が他人と違うことをアピールする製品、というものがある。車でいけばベントレー、昔でいけばロールスロイス(いっしょ??)か。

いわゆる80年代にドレスウォッチが人気であったことが、長い間不思議であった。私の感覚ではどうにもダサい。なぜ皆さんあのようなデザインがお好きだったのか。

仮説であるが最近考えている理由は、「他人より優越している、ということを誇示するために持っていた」というものだ。

ドレッシーであり、金は少ないが、コンビは多い。

金、という色を見ると、色本来の美しさとは別に、金を持っているぞ、という誇示意識を感じるので、たぶん日本人に金は受けないのではないだろうか。

つまりは「みんなと同じが一番安心」だ。

そのことを批判する気はない。というより、私にも深くその考えがしみ込んでいる。

すこし反抗したくて、制服を着るのを嫌がる程度で、基本とりあえずは「みんなに合わせておく」。

その心情を糾弾するような感覚が、金、という色を見たときに湧き上がってくるのだ。

不思議なものだ。

最近、金色を見直している。基本的にはシルバーや黒が好きなのだが、安く手に入れた金色、あるいは金の入った時計をしたりすると、なんだか「悪くないな」と思うようになった。

これは「別に他人にどうおもわれようとも」という感覚が出てきたこととあるいは比例しているのかもしれない。

それに伴って、いわゆる「ドレスタイプ」の時計も、これはこれで面白い、などとすこしだけ思うようになってきた。

要は純粋に製品としての魅力があるかどうかだ。

デザイン面での冒険や、オマージュと称される「真似」も含めて、製品として愛しいなあ、という風に、最近感じている。

(知らず安く買った時計が溜まってきました。。。汗)